書物や漫画のいい点のひとつにそれが学校や教科という枠に収まっていないという点が挙げられる。
経済学の授業は経済学者(やその卵)のためにのみあるのかもしれない(と勘違いしてしまう)。学校の美術の授業は美術の成績を残すためにだけある(と勘違いされがちだ)。
そんなはずがない。子どもは本来、何でも知りたがっている。どうしてお金があるのだろう、ものの値段はどうやって決まるのだろう。絵だって自由に描いてみたい。評価なんてものを気にすることなく。許されるならドラムを演奏したい。ピアノが弾きたい。
英語だけでなく、となりに住んでいる人の話す言葉も知りたい。長谷部キャップやザッケローニ監督の言葉も理解してみたい、 と。いや、日本語やイタリア語だけでなくアマゾンやアフリカなど世界全体に100くらいはいると言われる(「文明国」の側からは)未発見の種族の言語だって知りたい、って。
今日の中学生は世界のサッカーに詳しいのでヴォクはよく彼にサッカーのことを尋ねる。インテルのサイドバックはどうなのか。中田と本田の違う点は何か、松井の調子はどうかなど。サッカーには教科の枠がないのでその子の話はどんどん広がる。その子は林家ペーさんが人の誕生日に詳しいくらい、サッカーに詳しい。「何でそんなに?」「好きだからです。」学校とか教科といったものにとらわれすぎず好きなことを好きなだけ勝手に学ぶのも悪くないなぁと感じる。
たとえば教科書も同じかもしれない。学校の教科書に載っていない、入試に出題されないから学ばない、カットする、とばす・・・逆に試験に出るものだけを練習する、覚える・・・なにかが違うなとたしかにわかる。
試験に出なくても興味のあるままに調べたらどうだろう。発展的な内容も載っている本を開いたらどうだろう。どうしてわざわざここまでと線引きしながら勉強しないといけないのだろう。学生時代の12年間をそんなことに使うのはもったいねぇ。
そんなことを教材会社の方との立ち話中にふと考えたので書いてみた。