たとえば塾に来る。椅子に座る。たとえば指導員がすぐに来ない。
分かれ道がある。本を開いてすぐに自習をはじめる子。
瞑想にふけって虚空を見つめ指導員が来るまで指示を待つ子。
たとえばその差は小学生のときにはじめて塾にくる子の間にも存在するし、何回も繰り返し姿勢指導をした子の間にさえ存在する。何しに来たの?本を出さないでなにをしてるの?(ヴォク、なにを指導してんの?)
一事が万事で、力をグングンと伸ばすのはどちらのタイプかは言うまでもない。
同じ稽古なんてない。受け方、姿勢がまず違うのだから。
たとえば問題集を解いた後の分かれ道について考えてみる。まぁせめて問題くらいは答をみないで自力で試行錯誤しながら解いているというあったり前田の前提から話をはじめよう。それくらいはいいじゃまいか。
問題は解いた。そこで勉強を終えるのかすぐに答え合わせにうつるか。
×がある。赤で答を写して終えるのか、解答をチラ見して隠してまたすぐに考え直す、解き直すのか。
解き直した。本を閉じるのか、問題に印をつけておくのか。赤丸、青丸、亀丸、鶴丸、しっかり区分しながら。
たとえば次の日。新しい問題からやるか、昨日の×や?を見直すのか。
そんな分かれ道がいつまでだってどこにだってたくさんあるというのに、それを看板をもった道先案内人みたいに、そこ右です、それまっすぐです、つぎ左ですと言い続けるのか。それとも、「やらないと私みたいにひどい目に合うよ、あんたは自分でなんとかしなさい」と突き放すのか。まさかいつまでも手を放さずに抱き締めたままどこまでだって引きずりまわすというのか。
たとえば塾に来る。椅子に座る。たとえば指導員がすぐに来ない。
分かれ道がある。本を開いてすぐに自習をはじめてる。
うん、この子はもう大丈夫。
本を見てみる。○がまあるく書いてあり、×がバツっと書いてある。
なかにはその子独自開発のマークもあるみたいだぜぃ↑。もう一度解けの印だろうか、アゲ○とか、↑↑(アゲアゲ)とか、ag○(again)とか。
読みやすいね~。
だれがみても美しいよ。
文字を見てみる。読みやすいね~。まっすぐに書いてあるよ。
解答冊子はなくならない。
解答冊子は忘れない。
課題は忘れない。
細かいことに気がつくようだね。