なぜ子別指導で個別指導なのかと月に人間が行ったのかどうかについて
たとえば(あくまでたとえばだがとまた春樹村上の真似をした書き出しで、)個別指導の個の字がどんな漢字なのかはどうでもよいこと。子別だの個別だの真似するだのされるだのどうでもいいこと。
個別かグループかはどうでもよくないこととである理由があるとする。ある指導者が子別にあることについてその子に伝えたいことがあった。
たとえば、今日来る子にベクトルの円を伝えたい。それはテストをして円ベクトルだけが理解できていないからであってもいいし子どもの希望があったからかもしれない。
円を伝える必要のある子はベクトルを扱う際に「始点を定点1つに揃える」ことも、つまり位置ベクトルの概念も計算も知っており、角度や長さに絡む余弦定理と同様の使い道のある内積の概念も計算もできる。
それなのにどうして円となるとわからない気がするかといえばそれは理由は非常に明白でどんな式が円になりうるかのイメージをまったくもっていないわけである。意味の不明な公式は使えない。それは人類のほとんどがE=mc^2を理解しないのでそれを使った理論がまったくイメージできないのとちょうど似ている。
指導者は超高得点を叩き出す受験生に負けず劣らず持っているものがあり、それは見る目である。
見る目をずばっと今日この子に伝えたいとしよう。
たとえば(またあくまでたとえばだけで説明を押すと)、「内積のPが2回かけてあったら円」、「絶対値の中にPがあったら円」、という見る目を経験から今日まっすぐ伝授したい。
秘伝や伝授したいことというのはコツのようなものにすぎない感覚的な部分を含むので教科書や参考書や独学図書には載っていないことである。世の中にはそれでも真なることがあり指導者が伝えたいというミッションなり動機なり存在理由を持っていて学ぶ子もそういうものを学びたいと思っているという前提のもとに個別指導が存在するわけだ。
円ベクトルが一次関数の傾きになろうがやることは大きく変わらない。
指導者には見る目が備わっており学習者には今日習得したいテーマが明確であるようになっていれば授業が成立する。以上が個別の話。
1)月に人類の一人が降り立ったかどうかを知るには見る目のある人はわかっている(と強く思っている)。
見る目があると思っている人でもわかっていると思い込むだけでなく常にそれが正しいかどうかを確かめようと心がけていて複数の立場の人の書いたものや言ったことをよく聞いて材料にしている。
ひとつの見解を持ってはいるがもしももっと納得のいく考え方があれば変えてゆくような真実を求める姿勢を失っていない。
2)見る目のない人は見る目のある人を見つけてその人の意見を参考にするということになる。場合によっては偶然目にした記事を知って鵜呑みにしていることがある。そしてよくある。
見る目のない人は、わからないことがあるときに専門家と世間でされているような人、たとえば(!)宇宙に行ったことのある人や何回も行ったことのある人の見解を調べて参考にするだろう。どの人の意見を聞こうとしているか主体的になっているだけ少しだけ主体性が出てきている。
3)はじめから真実を探す気のない人は何も知らないままであり行ったのか行っていないのかはただの情報であって経験ではない。偶然目にするニュースや噂話にいちいち振り回されていて自分の考えは実際にはない。多くの人がやっていることを見ている場合と自分の世界に入って周りを気にしないといろいろあるだろうがそもそも真実をつきとめようという意思がない。
古文で言うところの「人、月面をありきけり」すなわち行ったと聞いているのであって、竹取物語レベルの知恵であり、行ったに決まっているという「人、月をありきしこと」やその逆の内容の文を言う人とは理解の段階が質的にだいぶ違っている。後者の人は理解を体験的にできている。(少し誤解のないように書けば、行ったか行っていないかを問題にして述べていない。理解の仕方の3種類を書いた。)
今日はいつものように丁寧に段階を踏んではわざと書いていない。
それはわかろうとする人にだけ今日は伝わればいいからといういささか乱暴な発想が書いた動機にあったからである。かといって暗号ではないのでよく読めばわかるようには書いてある。
さて、
どんな行動でも理由は複雑で複層的でときに行動の当事者にとって無意識に隠れた形で行動している場合もあるため1つの理由を背後に特定できないようなケースがある。
理由がない場合に物語を見ることはできても物語を説明することはできないため真実が見えないままになってしまう。
歴史は起きたことは覆せないわけだがその行動が起きてしまったとしたら諸々の隠れている意図や因果関係に加えて偶然や無意識の気持ちなども絡み合って結果になっている。
その中で説明できることと説明できないことがあるにしても説明のできるところを偏りなく真実の目で明らかにすることがいつでも必要である。
ニュース番組でもニュースでも新聞でも逃げているのか真実を明るみに出そうとしているのかはたくさんの記事や記録を少しでも調べている人にはすぐにわかる。
そして読む価値のあること、聞く価値のある意見に耳を傾けて自分の解釈を持つことは当たり前だが生きていくことと同義である。
映画『父に祈りを』を見た後に感じたこともこのような見る目を持つという考え方に影響を与えている。