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助動詞は動詞を助ける!? plus 不思議なのはクジラの公式と月面を歩いた人間 plus 学習塾 上尾市 光 今日の高校物理の単振動

クジラの公式があってそれを示すのは最小限の義務として行う。使う使わないは学生受験生に任せたらいいまでのことであるのだから。

 

A whale is no more a fish than a horse is.

than 以下にも SVまでは残りやすいという基本も学べる. 副詞の more についての理解が深められる.

私の知る限り斎藤秀三郎氏の Practical English Grammar に1989年にこの例文があげられたのが日本での英語文法書に初めてのことである。

むこう千年といわず語り伝えられることであろう。

そのようなものをかんたんにくだらないだの死語だのと言って取り上げないのは知ってて伝えないというある種の怠慢であるだろう。

もちろんもっと違う別の理由があるのだろうけれど。(thoughによる逆接を付け足すのはこういう文脈での「もちろん」以下になるなどと文法をいつも気にする文法病の私、光です。地球に宇宙に元素があってあらゆる物質が元素でできているように、言語にも法則のようなものがあって、だから、共通ルールとしてそれが多くの人の間で用いられうるのは不思議でならない。)

 

plus なぜ子別指導で個別指導なのかと月に人間が行ったのかどうかについて

たとえば(あくまでたとえばだがとまた春樹村上の真似をした書き出しで、)個別指導の個の字がどんな漢字なのかはどうでもよいこと。子別だの個別だの真似するだのされるだのどうでもいいこと。

個別かグループかはどうでもよくないこととである理由があるとする。ある指導者が子別にあることについてその子に伝えたいことがあった。

たとえば、今日来る子にベクトルの円を伝えたい。それはテストをして円ベクトルだけが理解できていないからであってもいいし子どもの希望があったからかもしれない。

円を伝える必要のある子はベクトルを扱う際に「始点を定点1つに揃える」ことも、つまり位置ベクトルの概念も計算も知っており、角度や長さに絡む余弦定理と同様の使い道のある内積の概念も計算もできる。
それなのにどうして円となるとわからない気がするかといえばそれは理由は非常に明白でどんな式が円になりうるかのイメージをまったくもっていないわけである。意味の不明な公式は使えない。それは人類のほとんどがE=mc^2を理解しないのでそれを使った理論がまったくイメージできないのとちょうど似ている。

 

指導者は超高得点を叩き出す受験生に負けず劣らず持っているものがあり、それは見る目である。確率を見るときには「分母をならべて、分子を並べる」。そのことの定義と意味。確率空間に事象Aが起きている標本をすべて書き出しておくこと。

見る目をずばっと今日この子に伝えたいとしよう。

たとえば(またあくまでたとえばだけで説明を押すと)、「内積のPが2回かけてあったら円」、「絶対値の中にPがあったら円」、という見る目を経験から今日まっすぐ伝授したい。


秘伝や伝授したいことというのはコツのようなものにすぎない感覚的な部分を含むので教科書や参考書や独学図書には載っていないことである。世の中にはそれでも真なることがあり指導者が伝えたいというミッションなり動機なり存在理由を持っていて学ぶ子もそういうものを学びたいと思っているという前提のもとに個別指導が存在するわけだ。

 

円ベクトルが一次関数の傾きになろうがやることは大きく変わらない。
指導者には見る目が備わっており学習者には今日習得したいテーマが明確であるようになっていれば授業が成立する。以上が個別の話。

 

1)月に人類の一人が降り立ったかどうかを知るには見る目のある人はわかっている(と強く思っている)。

 

見る目があると思っている人でもわかっていると思い込むだけでなく常にそれが正しいかどうかを確かめようと心がけていて複数の立場の人の書いたものや言ったことをよく聞いて材料にしている。

 

ひとつの見解を持ってはいるがもしももっと納得のいく考え方があれば変えてゆくような真実を求める姿勢を失っていない。

 

2)見る目のない人は見る目のある人を見つけてその人の意見を参考にするということになる。場合によっては偶然目にした記事を知って鵜呑みにしていることがある。そしてよくある。

 

見る目のない人は、わからないことがあるときに専門家と世間でされているような人、たとえば(!)宇宙に行ったことのある人や何回も行ったことのある人の見解を調べて参考にするだろう。どの人の意見を聞こうとしているか主体的になっているだけ少しだけ主体性が出てきている。

 

3)はじめから真実を探す気のない人は何も知らないままであり行ったのか行っていないのかはただの情報であって経験ではない。偶然目にするニュースや噂話にいちいち振り回されていて自分の考えは実際にはない。多くの人がやっていることを見ている場合と自分の世界に入って周りを気にしないといろいろあるだろうがそもそも真実をつきとめようという意思がない。
古文で言うところの「人、月面をありきけり」すなわち行ったと聞いているのであって、竹取物語レベルの知恵であり、行ったに決まっているという「人、月をありきしこと」やその逆の内容の文を言う人とは理解の段階が質的にだいぶ違っている。後者の人は理解を体験的にできている。(少し誤解のないように書けば、行ったか行っていないかを問題にして述べていない。理解の仕方の3種類を書いた。)

 

今日はいつものように丁寧に段階を踏んではわざと書いていない。
それはわかろうとする人にだけ今日は伝わればいいからといういささか乱暴な発想が書いた動機にあったからである。かといって暗号ではないのでよく読めばわかるようには書いてある。

さて、

どんな行動でも理由は複雑で複層的でときに行動の当事者にとって無意識に隠れた形で行動している場合もあるため1つの理由を背後に特定できないようなケースがある。

理由がない場合に物語を見ることはできても物語を説明することはできないため真実が見えないままになってしまう。

歴史は起きたことは覆せないわけだがその行動が起きてしまったとしたら諸々の隠れている意図や因果関係に加えて偶然や無意識の気持ちなども絡み合って結果になっている。

その中で説明できることと説明できないことがあるにしても説明のできるところを偏りなく真実の目で明らかにすることがいつでも必要である。

 

ニュース番組でもニュースでも新聞でも逃げているのか真実を明るみに出そうとしているのかはたくさんの記事や記録を少しでも調べている人にはすぐにわかる。

そして読む価値のあること、聞く価値のある意見に耳を傾けて自分の解釈を持つことは当たり前だが生きていくことと同義である。

 

映画『父に祈りを』を見た後に感じたこともこのような見る目を持つという考え方に影響を与えている。

 

plus 日本の研究力を上げる目的で、政府がつくった10兆円規模の「大学ファンド」の支援対象がどこになるのか、少し気になっている。

学生の特権は大学のものを何でも使えること。

使える時に使い倒したい。

 

plus 月に人類が行ったかどうかに関係なく高校物理では毎回のように月に行った話をしている。

共通テストの第2日程でも出題のあった通りで単振動の周期は月の上でも火星でも地球でもどこでも重力定数に関係がない。

T=2π√m/K で ヴォクは毎回確認のため、

「とってもとってもとってもとってもとってもとっても大好きよ まじで 丸い みかん」と広末涼子風のネタで覚えている。

gに関係がないのでマジの部分はこのゴロ合わせからもきっちり省いて作った。

もちろんベクトル図による単振動の速度式や加速度式の導出も、ライプニッツ形式表記微分もニュートン表記の微分導出も大真面目にやったあとに、最後に覚えておかないといけないということを示す意味で、公式にはゴロ合わせもセットにしている。

 

ゴロ合わせと言えば前田の物理だが自分で作る方が覚えられる。

ヴォクの場合はそうだ。

人によっては他人がつくった美しいゴロの方がいい人もいるだろうけれど。

 

plus きょうのひかり式古文現文いいきぶんのコーナー(コーナー?)

 

助動詞というのが動詞について意味のまとまりをつくる。

あるいた ありきけり

そんでな 助動詞は動詞を助けるから助動詞という名前なんか?

ちゃうやんか。

わかかったあのころ何もこわくなかった ただーあなたのやさしさがー (歌 「神田川」)ちょっといきすぎてもた。

「わかかった」は「た」の助動詞が形容詞についてるやんか。

ほかにも 「好きな力士は貴乃花なり。」なら助動詞なりは名詞についているやんなー。

 

ほな、ちがうか。(コーンフレーク漫才で書くが同じと違う 同値と対比の繰り返しが考える方法のひとつで現代文や文章を読む時もこれを追跡できると読めた!に近づける。筆者は面倒なときは丁寧に接続詞や副詞などを入れないから論理マーカーだけでは弱い。)

じゃあ、なんで助動詞ていうの?

それはね、動くから。

若かったらこわくなかったりして。

みたいにな、動くねん!

そやから助動詞ていうねん。

へー ほんまでっか。

いや しらんよ 助動詞はとにかく助動詞やけどそうおもうたからそういってみただけ。

ご反論のおありの方は日記に書いてなー。

 

でもさ、わかかった は わかく あった といえば「ある」という動詞についとるし、

貴乃花なり も 貴乃花だ はそれぞれ

貴乃花にあり と 貴乃花でぁ ←貴乃花である で どうも 断定 (英語ならbe動詞)のときだけなのではないかな。

断定のときだけでは? 

だから 英語では 断定は be それ以外は be 以外になっていて

日本語も 断定は あり それ以外は それ以外になっているのではないかな。

同じであるということは基本論理だから特別な形になってきたのではないかと思う。

ま、試験で問われないし入試には関係ないしどうでもええけどね。

ある と する どうでもええけどね。