光子全員が受験していた高校入試の会場模擬試験北辰テストが帰ってきた。返却されてきた。
夏休み以降の充電が実になってくる重要なシーズン2。
結果は、個人別にじっくり見てこの1月の学習計画を微調整軌道修正する。
光子 光塾生全員の偏差値平均は、
国語 76.4 63.2
数学 81.2 69.6
社会 92.0 69.6
理科 83.4 69.2
英語 84.4 68.4
5教科 417.4 70.6
ということだった。
ヴォク個人の目標差分は、+0.6。
ということだった。
いろいろ課題も見つかる。
ここから12、1月へ向けてシーズン3仕上げ期、得点力向上期に入っていく。
埼玉県学校選択問題のハイレベル数学トップレベル数学と、ハイレベル英語への対応力得点力アップ、そしていつも差のつく国語とくに現代文の読解力と表現力の向上が一大テーマとなる。
国語はなぜ選択問題がないのか。それはいまのこの問題で十分に差がついてしまうからである。
ほぼ初読で要旨、あらすじをつかみ解答していく。筆者によって客観的に伝えられた文章を読者受験生が客観的に分かって読むということを限られた時間内で正確に行っていくのにいまの共通問題だけで十分だと入試センターが判断しているということだ。
このことの意味は大きい。
具体例とイイタイコトを分けいかにイイタイコトを追跡していくか。
必要ならマークを施しながら読み進め、筆者の伝えようとしていることの要旨をとるトレーニングをつんでゆこう。伝え方が1つなのに対しもしも分かり方が無数にあったとしたらそこに現代文の問題設問は成立しない。
本当は何が何だと言おうとしているのかを追跡するという当たり前の読み方を身につけておく必要がある。そのことは当然だが進学後に授業を受けるのに必要な学力の一つだからどんなに練習してもしすぎるということはない。
めっさ難しいとされる数学は何をしたらいいのか。
受験者平均点がめっさ低い数学は何をしたらいいのか。
選択問題って1種類しかないから仕方なく難しいのよ。
何をしたらいいのか。
あー、ふつうに見えるようになったらいい。
三平方の定理、範囲外だけどね、まさかのまさかで証明できないのではない?
なんで成り立つのかも知らないで問題を解こうとするそのあてはめ公式主義自体がもう敗因なわけ。
イチジガバンジで、解の公式も、円周角の定理も、下手したら角の二等分線の定理さえも・・・。
ふつうに当たり前のことやろうよ。
イチロー選手のバッティングホームだけじゃなくて外見まで似ているあの方、お世辞にもバッティングがうまくないよね。メジャーではなぜか本当に打つ人もいるけど。
違いは目的がわかっているかどうかにある。
外見だけ真似てもナカミがないのはきついよ。
ふつうに地味に根本からやり直そう。土台がないと崩れちゃうよ。
いまのうちに土台をガチガチに固めよう。
急がなくていいから地道にやっていこう。
はじめにやるべきことは、それはすべての公式がただの公式ではなく意味をもった式として見えるまで自分なりの言葉で説明すること。意味もわからないものを単に公式だからとみなして公式を覚えて(とにかくに)あてはめて計算する、そんなのは数学でない。選択問題の応用問題ではまずもって得点は伸びない。数学は自分で考える楽しいもの。視野を広くもって成り立つこと、正しいこと、可能性のあることを予想すること、(ともかくも)実験していくことが練習のポイントとなる。
当たり前を徹底的に追求していくんだ。
たとえば、あくまでたとえばだが
(a+b)(c+d)=ac+ad+bc+bd
という展開はどうして正しいのか。まさか公式だからと思ってないよな。
分配法則とはいったい何なのか。
そういうことでさえ本当のほんとうにわかっているのだろうかと自問自答(寺門ジモン)して、改めて考え直してみること。当たり前のことをなんでなんでなんでだろうって疑ってみること。
ここからは勉強の冬。
自分のやるべき学習にいっそうフォーカスしていきたい。(とぞかくぞ)よそ見するのはもったいない。
自分のことは自分が一番わかっている。自分のへそをみる、自分から逃げない勉強をしていきたい。
やりたいことがいっぱいあって、でも1日はすぐに暗い夜になって。
あー、きょうはなんか進まなかったな。
時間を無駄にしたかな。
命がへったような気がするな。
そんなこと(とやかくや)かんがえなくたっていい。
一歩だけ、その一歩のことだけ足を踏みしめてその足が地面についてはなれる感じをたしかめて味わっていい。
戻っていい。(なんでアレヤコレヤ、あれこれがカッコの中に?)
小さいときに公園が楽しかった。
いま目の前の新しいところだけ見て味わっていい。
あわてないでいいよ。
と、いつもの話はどうでもいいね。
国語の作文あるよな。
あれ、あんなのなんで出るの?
不平等な感じがするのに何ででるのかって思うかな?ヴォクは思う。(「〜と思う」は筆者(ここでヴォク)のイイタイコト。)
点数だの偏差値だの言う前にそもそもなんであんなのが試験に出るのかと考えることの方が重大だよ。
解く問題があって点数化されるわけだけどどう書いたら高得点とされるのかは出題意図を考えることがあってはじめて試験のための準備となる。何が出るのか、どういう意図で出るのか、要求や意図を考えておく。時間配分だけでなく。
国語の模擬試験での得点がもしも悪かったならなんで悪かったのか、それは何も考えないでただこれが答えかもしれないなとかいうのを勘で書くからそうなるわけで、答えを出すために本文を読んで筆者のイイタイコトをとらえるだけでなく今度は設問をよく読んで出題者の要求を聞かないとならない。
筆者は何が言いたいのかは本文を読んで考えた。
次に、重視するべきことに設問が何を聞いていたのかをよく聴く。設問の意味を取り違えると出題者の要求に応えることができなくなりいくら筆者のイイタイコトをつかんでいたとしても現代文の正解は得られない。
出題者が何を聞いているかがわかれば何を答えたらいいのか正しく答えられる。
国語の作文は一体全体どうして出るのか。
自分の考えがあってそれを200字で表現しなさい。
いますぐ淀みなく30秒話しなさい。
そういうことを普段からやって頭を鍛えて頭をよくして考える人になって高校に来て欲しいというメッセージが読み取れる。
ただたんに読者として読み取ったことをそのままつかむだけでなく今度は筆者になって表現してくださいということだ。
だからこの大問は思いっきり書いていい。
出題には意図があり設問には意味がある。
前に、2018年の模試結果振り返りのときにも料理の話を書いた。意味もわからずレシピだけを暗記して料理を作る人は絶対にうまい料理は作れない。
意味がわかっている人は逆にレシピがいらない。
どういう目標を持ったものとしてその形を使うのかその材料を使うのか、数学の公式も数学の常識も英語の文法も英語の歌詞も字幕映画の英語も目標なり使い方なりを考え込んでおく。そこを徹底していく。Batman begins. いい映画だ。もちろんいい映画だ。で、なんでsがあるの? 三単現だからで終わるのってかなしいよ。自分なりの説明がゼロってそれはないね。人がいってるままじゃん。
国語も同じで何を聞いているかという設問の意味がわかれば何を答えたらいいかが見えると言うわけだ。
勉強というのは思考を停止させてパターンを暗記することではいささかもない。
入試では常に見たことも読んだこともない国語の文章が現代日本語で書かれている。
それをその場でさっと一読して設問読んで解答するときに問われるのは総合的な思考力だ。暗記していてもその暗記していた文章は試験本番では出ない。
普段からよく聴きよく捉える。考える考える考える。
意味もわからず読み進めないで立ち止まって調べて解釈して自分なりに要約して自分なりの仕方でも受け止めて読めばいっかいの文章からでも学べることがいっぱいある。
この冬に夏の2倍の時間がある。
ここで盲点を消していくことができる。
単元を攻略していくことができる。
教科を文字通り仕上げてゆける。
もう何回目になるだろう。
同じ問題でもよく考えて取り組めば得点は違ったものになりえる。
よく考えよく解くという実戦力も突き詰めてゆきたいものだ。
と、行ったり来たりコーンフレークみたいに書いてみた。
こんなあっちこっちにいく現代文は入試では出題され得ない。
入試の現代文では前から後ろへ向かって筆者のイイタイコトが書いてある。
そして設問では本文のある一定範囲についてずつ出題を行う。
この設問は本文のどこを担当しているものなのかを考えることが解法の柱の一つになり得る。
復習の際にはその設問はどの範囲のことを聞いていたのかという分析もしておけばよろしい。
振り返りを通して自分なりの読み方、解き方をつくっていこう。
こうマークしたらできるとかああやって読んだ方がいいとかは、人それぞれ。
人の言うことばかりを鵜呑みにせず、自分はこうやって読んでいくという自分の方法、自分なりのフォームを作ってゆこう。
自分なりの仕方の向こう側に限界突破があるんだ。
授業を聴いていても本を読んでいても、何でなんで?っておもう。
私だったらこうするけどな、あれ、ここはこうなんじゃないか?と批判的になること、板書のやり方は
それはそれでわかったけどいやわからないけど自分のこういう考え方じゃいけないのかな、そういう自分の中のワールドに没頭できるとき、人間の脳がスパークしてるんだ。
plus 「Vなるめり」の「なり」は断定か推定か。
「もしも し もしも な〜り が〜すいてーいだったらぁ (きんどこのテーマ曲で)」
もしも 「なり」が 推定 つまり 「聞いたところ…だ」であったら、「めり」ははじめから「見たところ…である」が確定しているので、合わせて、聞いたところ…であって、見たところ…である」とかぶってしまう。矛盾する。よって「なり」は 推定 ではない。なり は もともと 推定か断定しかない。よってなりは断定である。(背理法による証明)
もともと日本語はストレートにいうのは奥ゆかしくないので避ける。そこで断定したあとやわらげて婉曲的にする傾向を持つ。
ここでもその具体的な表れで「…であるようだ」という言い方をしている。
したがって なるめり は「 …であるようだ」のようになる(ようであるみたいな気がする的な感じで了)。