「ヘルメット○」が身についた子がいた。
いつからかそれが見えるようになってきていた。今日はっきりとそれは見えた。
ヘルメット、私はあの集中状態のことをそう呼んでいる。
その帽子をかぶると人は対象にはりつく。
テクストにのめりこんで筆者に寄り添いはりつく。
問題にはまり込んで解決の糸口を探る。
受験生であるかどうかというような形式上のことに関係なく年齢差も時期差もなくそれはやってくる。
ヘルメットをつけた頭はじーと問題とともにいて周囲の雑踏が耳に入らなくなる。
深夜になった。
眠る時間もやってくる。
家族はもう寝ているというのにノートに貼り付けたプリントの上にあなたまでが貼り付いて動かなくなっている。
雨が降っても雷があってもそのヘルメットはびくともしない。たまに水を飲むときくらいだ。そのヘルメットが動くのは。
読めなかった問題が読めて読み切った瞬間、そのヘルメットを急にはずしあなたは大きなガッツポーズを小さな勉強机の上で決めている。ヘルメットが勢いで脱げている。
そのヘルメットは透明の色をしていて普段はなかなか目に見えなかったのだけれど脱げたときにふと気がつく。お! ヘルメットをつけていたのだったな。
ヘルメットがみについている人だけがそのヘルメットをまた身につけることができる。
安全第一、そういう文字がその奇特なヘルメットには書かれていない。
色も香りもなき名もなきヘルメットがあなたの頭についているのだ。
名もなきヘルメットの名前は「考えるぼうし」という。
この帽子があれば0から10まで自分で調べようとすることができるようになる。
自分の身体は自分で守らねばならない。同様に自分の頭は自分で鍛える。
人に教わるのはわるくないが人に言われることをやるばかりでは隅々まで行き届かない。
ここのところが知りたいと思ったら人に聞いたり人から教えられるのを待つ前に自分の手足で調べてみるのがいい。
人に言われるのを待っていて自分では調べてみようともしないなら知識の点で自分で調べる人を上回るようなことはまずない。
世の中は複雑化し分業制は進んだ。シェア(自分の役割)を全うすることはたしかに重要だが、複雑化しているからこそ自分の守備範囲外の事柄についても基本的な知識を求めるようでなければ現代社会の仕組みがとんとわからなくなってしまう。ニュースを見ていてわかることが半分もなくなってしまう。
基本的な部分だけは隅々まで自ら気になっている順番に調べる癖をつけておくのがいい。
さるでもわかる、まんがでわかる、などの本でもいい。
馬鹿にされているのがわかってでも、基本は自分でもなんとかして身につけるようにしたい。
それが教養というものだ。
受験勉強でも基本的なスタンスは変わらない。
たしかに細かい指導は存在するだろう。1から9まで手取り足取り一緒にやってくれる人はあるだろう。それでも0と10のところは自分でやらなければならないし運が悪ければ1から9までのところにも漏れがある。8割でいいと考えるのならば言われたことだけやっていたらいい。
しかしそれではプロになったときに苦しい。
プロは0から10まで全部に責任がある。権限が大きい分だけ責任も全体になる。知らなかったではすまなくなる。ひとつの教科だけでもはじめは構わないので超科目をつくろう。
その科目については何でも思いつくことをやったと言えるくらいになろう。
0を大事にしよう。
0の基本の土台がしっかりしていたら1から10がぐらつかなくなる。
習ったことがなぜそうあるのか自分でも納得行くまで考えてみるようであれば0が身につく。
0から9まで行けたなら10までゆくのは時間の問題だ。
遅かれ早かれいつか10になってゆくだろう。
ただし、ゴールが11なのか100なのかそれはまた別の問題だ。