2024年度 第3学年 第4回(9月1日) 北辰テスト 会場模試 が返却された。教科別にじっくり分析して今後につなげたい。自分のやるべき学習のポイントが浮かび上がり集中的に意識することで10月以降の実力テストでの得点力が大きく変わる。判定は今の時期はまだ気にしすぎず、どうやったら得点が上がるかを見るとどんなポイントに重点をおいて練習したらよいか見える。大事なことは、本当は、実力をつけること。(いまの結果は冬から春までやってきて身についたことの結果である。そして夏から今までやった練習は11月頃に出始める。だから結果は二の次と言っている。)
ただね、結果と判定は実際問題ものすごく自信につながる。人は弱いので結果を出すまで自分ができることになかなか気づきにくいのが現実だ。できるぞできるぞできるぞなんて結果が出るまえから言い続けるのは珍しいコーチだけでふつうはそんな恵まれた環境にない。結果が出るまでできる気はしてこない。だから結果は自分でとりたい。それなら10月、11月以降から結果を出すための今の練習生活を生きていけばいい。
それで結果を出すためには結局練習するしかない。1つのテーマごとにじっくり練習したい。結果か練習かをいっても仕方がない。卵も鶏も同時にいる。練習と結果は同時にある。
数学。全体的には易しかったセット。数列2(5)以外はふつうの学習をしていたらとりやすい。関数の動点や図形の面積(は辺の長さの比で考える)などが決め手になるので引き続き練習しておきたい。
英語は長い文になる。いつも要するに何がいいたい?と<論>を考える。数値のデータは目立つ部分に注目する。前置詞like 逆接の however but yet though などは毎回ポイントになる。
譲歩→逆接→ <論> という展開が多い。, however, がその目印になる。
I believe that S V または I'm sure of 名詞.
that S Vの前の前置詞は消えるので
I'm sure that S V になるなど重要な構文は普段から注目しておきたい。
国語。古典は今回古文でなく漢文訓読体の文章(漢文)だった。古文とは若干使われる文法、とくに助動詞などが変わってくるが、基本的には古文と同じ読み方でよい。
「む」 は mu で → u だから、現代日本語の 「う/よう」でとらえる。m=n だから 「ん」も「む」と同じ。
その反対が 「じ」 。 反対だから「じ」 =「ず + む」 で 「しないつもり/しないだろう」。助詞の「や/か」は少し違う。知らなくても大丈夫だが「か」は「か」の上の語についての疑問/反語で「や」は下の語についての疑問反語。文末やかは詠嘆も含めて考える。「うらめしや」の「や」。すべて過去に書いたのと同じ内容。注がついていて苦なく対応しやすく書かれている。漢文独特の言い回しで古文と異なるところはすべて訳を付してあるように配慮されている。
理科の大問5-5 力学 力のモーメントが良問で、よく研究しておきたい。回転させる力の方でなくテーマは、重心にしてあるという題意を受け取って考える問題。非対称な図形なので難問である。偶然正解になるという弱点はある問題なので正解はさておきどこが重心といえるのか数学の問題として考えてみるのは今後にとって役に立つはず。
日常なにかをピンで固定するときに美的センスからその場所を決めることもあれば、重心を定めてそこをとめるということは多かったはずだ。教科の枠組みにとらわれずなんでだろうと一度考えることをあきらめないで過ごすことは普段の生活から意識しておくべきだ。勉強は本の前にいなくても寝る前の寝てしまう直前の短い時間でもできる。横になってしまうと結局寝てしまい悪夢になって睡眠が妨げられるのは困るのでおすすめはしないが受験生はややこしい問題だけはメモして寝かせて考える(あとには回すが気にはかけておく)というような姿勢も必要なことはあるということは知っていても損ではない。
帰りに1人で歩いているときなど何かの空き時間にふと考える方に回しておいてもいいだろう。15分だけ集中してじっくりと考えてみてそれでダメなら問題点だけはきっちりとメモをとっておく。そして置いておく寝かせて考えることを熟勉と言えば言えようか。(いやふつうはそんな変な言葉ではだれも言わない。もっといい言葉が存在するのであとでかく。)
要するに60分を15分4つくらいを目安に集中してみるということのひとつの勧め。ずーーーっと同じ問題をやるのは時には大事だがたしかに効率も気にはなるので、目安として15分をリミットにするというようなもの。試験本番でも大問1題の上限はせいぜい15分が限界値で通常10分が基本単位になっている。自分で勉強する時も10分タイマーを意識するのもスピード思考を意識してトレーニングする時期には練習法として悪いことではない。
ただ10分では未解決の問題解けない問題がたまってしまうではないかと考えるだろう。そこでノートだ。ときなおしノートで解けなかった問題をはりつける、未解決問題ノート、疑問ノートというのをつくっておいて、書き留めるとたまりまくって大変なことになるのだが、そういうものもあきらめないでメモして置くのは問題に気がつくことになるし意識がそこに日常向けられるので他の単元を学んでいるときにふとヒントや手がかりを得て急に解決する奇跡的な瞬間も期待はできないが起こりうる。
(まともな言葉や関連事項にもしも興味のある方は、 セレンディピティ的発見、その鍵は偶然を生かすことができるかどうかであって、実験や観察をする人たちの心がまえしだい、ふだんからなにごとかのテーマへの集中する意識があって、周囲のできごとを注意ぶかく観察し、それに瞬間的にこれは気になっていたあの謎のポイントともしや関係しているのではないかなと反応できるような心の準備がつねにそなわっていることが必要な姿勢、という有名な話。「セレンディピティ」という言葉、スリランカ、 『セレンディップの三人の王子たち』をGoogle 検索などをなさると出てきます。)
偶然わかるのが悔しかったから本職でも見つけたいから研究を続けていらっしゃるあの日本人のノーベル化学賞受賞者のように、必然的に狙ったことをわかろうとし続ける粘りが研究には最重要なのだろうが、やはり人間なので、自分にとっての難問は難問のままになってしまうことは多々ありうる。
そこで研究者でも学者でもない受験生としては自分にとっての難問題にぶちあたってしまった場合には意地でも考え続けるのではなく妥協策として次の策もある。
1) ここから先はいったん偶然に任せる、後の自分の頭の発達に頼るというやり方、アインシュタインがそうしていたようにボートの上でぼーっと、ゆらめかせながら、頭の中を整理するというか並び替えるというか自分なりの納得いくような状態に落ち着かせる時間も必要なことはある。そしてわかる次の問題にまずは進んでしまう。とまるとあせってしまい集中しにくいのであれば数としては進めておいて質的に難しすぎた問題は後回しにするというのもひとつの手ではある。
2) 先生についているのであれば質問してみるのもいいかもしれない。
ずっと難問を考えつづけ1週間ほかのことは何も進まずそしてその難問についても糸口がみつからないという状況は受験生にとってはつらい。前に進まない悔しさは精神的にもつらい。
試験のときもはじめはできる問題から手をつける。それと同じで先にできる問題を片付けてリズムをつくりたい。人間だからねー(tさんの歌詞で)。
以上、あまりの難問は15分だけ格闘する、それでダメならいったんメモして次に行くという姿勢の話。次から次に難問が押し寄せてきてもう解ける問題がなくなってきた。どうしたらいいんだー。
それでもなんとか道を見つけるしかない。それなら自分にとってやりやすいところを探して少しだけ進めてみよう。
社会の大問2-6 地形図 は重要問題で、よく見直しておきたい。
できることを探してそのことに集中する。
plus きょうはもう古文を書いたから今回のplus αの古文は試験の得点に一切の加点にならない「なり」について。
古文を趣味に感じる人以外は読まなくてよろしい。
と先に断ったのである。( から先は読み飛ばしてください。
( ドラえもん はじまるよ。
まったくもって加点されない高校の教科書からはわざと省かれている場所の話(なり)。
「なり」がたくさん使われていた。漢文では「たり」だが本文は「なり」。
昔、英語のbe動詞の説明を聞いて謎に思ったことはないだろうか。
ドラえもんはネコだ。わかる。「だ」 は=。
ドラえもんはネコである。わかる。「である」もイコール。断定と言うことにする。いいでしょう。断定と決めつけるのは仕方がない。なにかの命名は必要だ。断定ならまだわかる。
ドラえもんは青いを英語で Doraemon is blue.と言えばどうも違和感がないか?
あるいはまた Doraemon is kind. も違和感がないだろうか。
どうして 生き物 = やさしい ?
どうして モノ = 青い (性質) ?
どうして 名詞 = 形容詞 なのか?
そこが長くひっかかっていた。
猫は動物だ はわかる。
猫は哺乳類だ もわかる。
その猫はやさしい は違和感があった。英語でも日本語でもなんでそれはそうなっているのだろうと思っていた。
いまの高校の古文文法をまとめられた橋本先生のつくった橋本文法のずっと後に、ある高名な日本人の学者さんが書かれていた。
ドラえもんは青いネコである。
ドラえもんはやさしいネコである。
ドラえもんはやさしいネコだ。
ドラえもんはやさしいネコなり。
「なり」は命題 題目提示型の文章でしか用いないのでドラえもんと言えば猫なのは当たり前である。
文章全体がドラえもんという猫の話をしているのは当たり前だからわざわざ
ドラえもんはやさしい(猫)である。
と書かずに
ドラえもんはやさしい(の)である。
となり、さらには、
ドラえもんはやさしい。となったと。
例は違うがそのような話であった。
be と あり が似ている気がしていて関連を考えていた私は思ったものだ。
日本語では述語に動詞だけでなく 形容詞も 形容動詞もきて さらには ねこである。
これなら「ある」があるからまだギリギリ動詞とも言えるが、
ドラえもんは猫。
とまで文がなってしまうのは「なり」の性質からきているような気がするようになった。
ドラえもんは猫にあり。
→ 発展 → ドラえもんは猫にてあり。
→ 発展 → ドラえもんは猫である。
→ 発展 → ドラえもんは猫で( ・・)。
→ 発展 → ドラえもんは猫だ。
→ 発展 → ドラえもんは猫。
→ ドラえもんはあおい猫だ。
→ ドラえもんはあおいのだ。
→ ドラえもんはあおい。
英語も基本的には述語は一般動詞が多いが be動詞がくることもあって、SはCだ。という命題提示型の構文になっている。英語では be は文では省略しない。
「ぼくはくま」という宇多田さんの歌をはじめて耳にしたときにはその頃にはもう違和感はなくなっていた。
昔は文法の本を読んで不思議に思っていた。
日本国語で「用言になるのは動詞 形容詞 形容動詞である」と書いてあったので、あれ? ネコは? あれれと思っていた。
英語でも S be C で SがCである というときにCには名詞だけでなく形容詞も来られるが 猫は猫であるのは当たり前なので
猫はやさしい猫である といっても
猫はやさしい といっても大差がなくなったのではないだろうかと勝手にスムーズに考えるようになった。
これは専門的な論文をいっぱい読んでまとめたのでなくただの個人の見解。
この考え方を使うと、
「なり」の上に 「Aざるなり」「Bぬなり」となることにも納得がいくようになった。
ラ変型の活用の種類を持つ語は、原則として助動詞が下につくが、「Bぬなり」では断定の「なり」の前の打消しの助動詞が「ざる」というラ変型の方ではなく「ぬ」になっている。どうして連体形の「Bざるなり」としないのかという謎が消えるのにもつながった。
それから、助動詞の「だ」は助動詞なのにどうして動詞ではなく体言(=名詞)につくのかについても、謎がとけてくる。)
↑
読み飛ばし箇所の終わり。
読み飛ばした方へ 結論だけかくと、
「ドラえもんは青い猫である。」
「ドラえもんは青い猫だ。」
「ドラえもんは青いのだ」
「青い」は 「猫」 につながっていて 「である」は 「猫」からつながっている。
「青い」は 「猫」 につながっていて 「だ」 は「猫」からつながっている。
「青い」は 「の」につながっていて 「だ」 は「の」からつながっている。
そのうち当たり前部分の「猫」や「の」を省くと、
「ドラえもんは青いのである。」
「ドラえもんは青いのだ。」
「ドラえもんは青い。」となっていった。
古文でも、
「この川は深い川なり。」
「この川は深からぬ川なり。」
「この川深からぬなり。」(「ぬなり」の説明は高校教科書範囲外)
(注) 試験結果を書いているときにおまけで載せている古文 plus α は(注)がつくような話で試験での得点加点には関係がないです。試験結果のおまけで載せているところも読み飛ばしていただいて何の問題もありません。
plus
話を戻して、
セレンディピィティーとは「偶然の中での発見」の意味。
それをやろうと思っていたわけではないけどたまたまある発見を自分でしてこれってかなり役立つなーということを発見したことはないだろうか。自分で自分にノーベル賞をあげたことはなかっただろうか!そのときの気持ちのよさったらたとえようがない。
試験で違う問題をやっていて、真剣に考えていたのだがふとそのときに思いついた発想は、この考え方は別の悩んでいた問題の解決の糸口になることを発見したことはないだろうか。テストは半分どうでもよくなってテスト後からその問題に改めて取り組んだときの感動はなかっただろうか。そのようなときは人からいい方法を教わってできるようになったときとは違う種類の感動に包まれなかったか。
セレンディップという国の国王が歳をとって王位を三人の息子に譲ろうと思った。でも城の中で温室育ちでせけんしらずの皇子たちにいまのまま国王の座を譲るのは国の未来を考えると頼りなく思った。
そこで王様は王子たち三人を城から追い出してしまう。王子たちは森へ出てさまよい歩く。やがてすぐに水もなくなり水がどこにあるのかと家来に呼びかけたいが城の外には召使いも家来もいない。そんなときになにやら音が聞こえてくる。水の流れなのではないかと勘ぐったりしながら近づいてみて川というものをはじめて見た。水が川に流れているのを知った。しかも眼前で大量にごうごうと水が流れていて飲み込まれるほどの感動も危険も知った。
水の流れる音を聞いて川を見つけた三人はそのあと街へ出て多くのことを町で学んだ。
その後、城へ帰って王様に見聞したことを話した。
いろんな経験を積んでいくとその経験が積み重なっていろんなことに結びつくことがある。王様は経験をたくさんした三人の皇子のことをたのもしく思ったことだろう。三人の子には問題があっても前向きに解決策を探す心もあり経験して間違いをたくさんしながら何か策はないものかと考えるという知恵がある。
医学の世界でも違う分野を研究していた人が新薬を発見したりすることがあった。
これが逆にあっちに効いた!という発見に至っている。狙っていなかった分野での発見を素直に喜べないという研究者の声もよく聞こえるが、長年の努力があってはじめてそこまで到達したからこその新発見につながっていることには違いがないわけである。その経験がまったくの無駄でなかったことだけは喜んでいいのではないか、と述べている人もいる。
発見を、狙ってするのは簡単ではないが経験は無駄ではなく蓄積されていくものでイチローさんも稲葉さんとのインタビューで練習でも野球への取り組みでも自分は遠回りをたくさんした。無駄な練習が多かった。でもそれらは自分にとっては必要だったというようなことを述べておられた。無駄のすすめということをあのイチローさんが話されることで多くの方が勇気をもらったことだろう。
たしかに無駄の数々で最短コースを進まないことは短期間でみてまったく効率的ではないかもしれないが、ではそれらの遠回りは無駄だったのかと言えばそうも思えないというような話だった。
(すべて有名な話ばかりなのでyoutubeでご覧いただけたらいい話なので引用が不正確ですべての話で誰がなんといったのかきちんと引用をしていません。
キーワードの羅列だけで不正確な部分が多々あるままです。申し訳ありません。)
自分なりにはこんなことなんじゃないかと思っている。
いろいろやっている。いろんな方法をためした。自分なりの形を探した。自分のやり方を作ってみた。新しいフォームを探してみた。音楽でも絵でも文章を書くのでもスポーツでも勉強でも共通点がある話だと思った。
いろいろな方法をためしてみて、できないこととできることが増えてきた。こうやるとまずいという道も多く知りこうやるとまずくはないという選択肢も増えてくる。引き出しの数は多くなっている。
いくつかの武器もできてきたかもしれない。
経験を積んでいるとまったくの偶然とは思えないような発見にぶつかる可能性は大きくなるのではないだろうか?それが目指していたそのものズバリとなるのかはわからないけれど発見をしやすくなっているというのは言えるかもしれない。
悪く言えば固定観念が増えていて頭が固くなっているかもしれない。
よく言えばいろいろやってダメだったからもう持っているもので勝負しようという割り切りのようなものもある
コーチえのもとは言った。コーチえのもとは何回か書いたが朝5:30に集合して人がいないような時間に部員が上半身裸でグランドを整列してランニングする。笛が吹かれたら10mほど最高速度でダッシュするということを30分ほど続けていきなり部員の大半をクタクタにさせる。
その後服を着てつかれまくって喉がかわきまくった状態から通常の練習をはじめていくというやり方で今思えばその点がなぜそうしていたのかものすごくよくわかる。
テニスになんの関係もないように見えて気合を入れているだけだと思っていたのだが180度違う。
まず疲れ切って身体が動きにくい状態、無駄の抜けたところから全部の練習をやろうというわけだ
全力でやって身体がいごかんようになってきたやろが。そのとき無駄がない楽な形で身体がいごいてるわけだからその形を身体に覚えさせなさいと。
全力でやったあとに力が抜けて力が入らない足が棒になってきたときに形が見つかっど。
足がぼうだった私にはすーっとその話が入ってきた。
たしかにきた球を返す以外にやることもないし考えることもない。
ただ力を入れずにふれているのかなと。
無駄な力が入ると足が絡まってズッコケル。もう力を入れないでただインパクトのときだけボールをラケットにのせるような楽なフォームが見つかった。
そして試合を決めるお互いがクタクタになりそうな後半の局面では脚が普段から棒になっていたぼくたちは有利に進めることができた。
それは日常の練習よりは楽な場面だったから。
栗山監督が書かれている本にも古田さんの打撃理論を聞いて気づいた発見についてなどいろんなことが書いてあるようで、読んでいる。
大谷さんみたいな天才でない(ような)人をその道の一流に育てるような話はなぜか昔から興味があって一通りは聞いてみないと読んでみないと気が済まない。
読んでみると育てるといったようなことは書いていなくて本人に気づかせるとかの言い方になっていることが多い。
そもそも天才なのかどうかなんて誰にもわからないことだし遺伝と環境と努力とは入り組んでいるので込み入ったときにもがき苦しんでいる人にうまいヒント、気づきのきっかけを与えるような話は仕事がらなのか、私は好きである。
何が言いたかったのかと言えばいつものようになんのまとまりもない。
狙ったとおりには行かないかもしれないけれどやって下手になることは勉強ではないということを声を大にして伝えよう。
いいから、やりなさい、と。何をどういう順番でどういうルートでやってもいいんだよ。
最高の方法を探すのはほどほどにして。まずは目の前のをクタクタになるまでやりこんでごらん。
直接つながるかあとで繋がるかしかないのだから。
最後にひとつだけ引用を行う。
「
「過去の言葉」は発した瞬間に見せた色と違う色になっている。
本書が手に取ってくれたみなさんに価値をもたらすことができるとしたら、ここがひとつのポイントかもしれない。
監督として「記憶が鮮明な時期」と「今」で、何が同じで、何が違うのか。本書はそれを知ってもらうことに挑戦している。」
(9月9日に発売された栗山英樹(前北海道日本ハムファイターズ、侍ジャパン監督)の新刊『監督の財産』の「はじめに」より)
(一つ引用するなら二つも三つも同じだ。同書から引用。)
「・・・そう、大谷翔平はなにも変わっていないのだ。
どんな言葉で口説いたのか、と何度も聞かれた。
しかし、交渉の席では、「一緒にやろう」とも、「ファイターズに来てくれ」とも、僕は一度も言っていない。
それらは、あの状況で伝えるべき言葉ではないと考えたからだ。言葉はとても大事なものだからこそ、あえて言葉にしないほうがいいこともある。」
(『監督の財産』収録「3 伝える。」より。)
いやあ、口が軽い思ったことをすぐに口に出してしまう私なんかとは180度違う。
だから興味を持った。
大谷さんにばかり焦点がいきがちだが、私にとっては栗山さんの考え方こそも・・・(あえて書かないと。)
(引用をもう一回。)
「それにしても、さすが古田さんだと思った。自分で実践できるだけでなく、他者にも分かりやすく伝えることができる。しかも、それは誰かに教えられたものではない。あるとき、ふとした瞬間に自分自身で気付いたものなのだ。そこが肝心だ。
野球を教えていてはダメだ。教えていてもキリがない。
ただ、自分で気付ける人を作るというのはアプローチがまったく異なるので、もっと幅を広げてあげられるかもしれない。それがいまの仕事だ」