上尾市にある学習塾|光塾

ほな やっぱ ちがうかーをずっと繰り返すと突如これか!になることがある plus イチローさんの全力

コーンフレーク行ったり来たり漫才もそうだが漫才からは学べる点が多い。

 

話はいったんとぶが春日への「なんでもつっこむと思うなよ」の古典的な小ネタにも感動させられた。

なるほどと。

そのときむやみやたらに、なんでもわかると思うなよと思った。

 

コーンフレークは行ったり来たりできるからコーンフレークなのか。コーンフレークはどういう見方をしたらいい食べ物なのか。

ぼくは「おー コーンフレークやないかい その特徴はもう完全にコーンフレークやがな」と人と一緒に考えてみるのを普段の仕事の一部にしているので、そのコーンフレーク、ミルクボーイには衝撃を覚えた。というのを今更ながら書いてみた。

 

そう、漫才を聞いていても漫才に入り込まない瞬間にはいろいろと主観幽霊がやってきてぼくはぼくのことを考える。なんでもわかるとおもうなよ。

なんでもわかるとおもうなよ。というような感じだ。

 

和歌の句切れ。和歌は句切れの上が心情の中心だから句切れを形の上から見つけたいが句切れはわからないこともある。なんでもわかるとおもうなよー、だ。(え!説明をするのを仕事にしててそれ、ゆー?)

 

と とて なんど など の上の」終わりのカギかっこを真上につけて、その後に戻りながら引用のはじまりのカギ「はどこにあるのかは(「は」は「については」とテーマ提示の助詞だと習ったことがある、はを使うたびにそうなのかなと気になってしまう)自分で探す必要があり戻るのだが、引用がどこからはじまっているのかは消しゴムもなかった古文の文章では実はあいまいな場合もある。なんでもわかると思うなよーだ。

 

ふだんはこたえがあるものを主に扱っているわけだが冷静に考えるとなんでもわかっているなんてことはあるわけがないのであってここまではわかるはずだけどここから先は未知なんだーと限界点も位置をも伝えられる存在でありたいと普段考えている。普段です、ふだんです。

「にんげんだからねー(←えいきょう)、たまには」わかりにくいようなことは続くところもある、それがおもしろいところでもある。

 

この世のことがすべてわかっていたらAIと同じで最短ルートのタスクが自動化されて算出され最適解がいつもわかっていて、消化試合だらけになってしまう。

 

パズルになっていて解き明かされていない状態になっていて宇宙人のことも海の中のことも昔の言葉のことも月のことも(Tuki.の晩餐歌の縁語で)、生物も医学も宇宙も森羅万象はわからないことに満ちていて不思議の国になっている。

そこが面白い。

見えないものが見たい。人間だからねー。

垣間見えるくらいがもっとも興味深い対象になる。

いっかいの仕事で全部を解明できるようなコツを教えられたらいいのにと思うのだが一回の仕事で全部を解明できるようになるのはもともと困難なところがあり、結局理解といったって程度の差でしかなく理解はいつだって深まったり広がったりたまに縮まったり絡まったりもするが、あるときすーっと霧がはれたように見えてくることもある。真剣の向こうにしかその瞬間の到来は期待できない。

 

だから大事なことは毎回伝える。

同じことを連続10週くらい伝える。

きょうわかっていない様子のものでも考えて生活したり練習したりなどを続けるとものすごく上達するものだ。

スポーツでもピアノでもサードの守備でも練習をしたら少しずつうまくなっていくものだ。徹底して継続するとものすごくうまくなっていく。

見えるようになってくると自分で見えることが増えるので人の見方の1を知って6も8も知ったりするようなことができることもある。

違う世界でやっていたこと考えていたことといまやっていることが突如つながって、あっ!っと大発見するようなことがある。思わず念のためメモりたくなるような、神が降臨したと思ってうれしくなるような瞬間はクリエイターのかたならいや人間ならだれでもそのようなときがあったにちがいない。

きたー、って。

教科が違っても言葉が違っても物事はもともとつながっているところや関連しているところがいっぱいあるからAの面が見えるとBの面側から見ていたものがAの面からの景色と急につながってパノラマの視界になったりすることがある。現象の方は同じ状態でもとからいつもと変わらずいて目の前にあったのに人間が見方を変えると見える景色が変わってくる。人間が見る切り口を変えたり切る回数を変えたりして分割して考えてみると2回切って3つに分けて見えていたものが切らずに全体として1つの同じものとして見えてくるようなこともある。分割しても統合ししても見ることができるようなこともある。そのとき現象同士にはもともと縁(えん)も縁(ゆかり)もあったんだなあと後になっていろいろ気づくが出会ったときにはなかなかそこまで見えない。

 

スティーブ・J のいうところの点と点がつながることがある。

だから気になっていることは気になったまま考え続けてみたい。

わからないことは将来のわかってくるにつながってゆくんだ。わからなくても取り組んだり考えたりしてみたことが無駄になることはない。

 

そもそもなにかがわかるといってもいまはこんなふうに考えているのだと自分なりの理解の仕方で分けて眺めているだけであって、わけかたにはたくさんの方法もあって分け方の方法は数学的には答えもわかっていて解答も出せている。方法の数は理論上は有限のはずなのだけれど、現象の不思議さを前にするとどこかしら変化しつづけて可能性は無限に開かれてあるような気もする。何回切るのかとどう切るのかについて無限回の選んで並べるがあるような気さえすることがある。

それはまるで、100mの短距離走の記録が人間の身体のつくり上9.70より速くなるはずがないはずなのに、どうしてか、あるとき突如それを大きく上回る記録を叩きだし続けて無限に近づく人がいたときのように。

わからないものだなー。君の瞳にウサインボルト。

 

自分なりの捉え方が誰にでもあって自分なりの意思で自分が決めるような見方で見ることができるのが人間らしいことなのだ。好きに切り取っていい。わかるということひとつとっても人間だからねー、自由に見ていい。どう見ても他に見方はあった、わからないことは残っていたのではないかと思うんだけどね。

あっちにいったりこっちにきたりするコーンフレーク漫才は人間のそういう終わりなき思考の旅や煩悩の際限のなさを見事に表現している素晴らしい台本だと感じる。漫才のボケ、ツッコミ、滑舌のよさ、関西弁などの漫才としての二人の技術もさることながら、テーマ自体の奥深さ、無限への問いかけ、そんなことを感じながらミルクボーイのコーンフレークをぼくは見ていたんだ。コーンフレークには魂がどれだけ宿っているのかということさえ考えさせられる。

 

実際、「あれみんな煩悩に牛乳かけとんねんあれ」というような比喩は、だから、無理を感じさせられず、ある意味自然の極致。

その場では、聴いていた瞬間では、ぼくはあの煩悩というワードもまた、理解できなかった、それでいて直観的に笑った。人生のどこかで垣間見ていたこととつながったからなのか。

煩悩に牛乳をかけるについて解説をつけるのをミルクボーイのおふたりはずっと何度もなんども繰り返し来る日もくるひもネタの中で考えていたんだとおもうと読み返しても聞き直しても見直しても深いとしかいいようがない。

映画とちがって完全版においてさえあれほどまでに選び取られ短縮されてぎゅっとつまった短い漫才という作品になり、その中に宇宙があって世界観がある、そういうところも漫才のお笑いのおもしろいところなんだろうな。ネタには本来終わりがなくセリフの言い換えも無限にできるような感じさえ受ける。同じセリフと違う言い方の意味のある配列も見事で、ほんまによくできた漫才だと感じた。

 

コーンフレーク構文という新しく見方を提示している、なんて言えばいえるが、そんな面倒くさいこと解釈せんでいいから、たのしんでやーという割り切り、小ネタ、小ボケも小つっこみも小煩悩も大煩悩もいっぱい詰め込まれている。

ミルクボーイさん、ありがとうございます。

 

plus 今日のイチロー

こっちには最近書いていなかったがイチローさんがメジャーを引退された後のいろんな動画からも目が離せない。

スポーツのことではあるがスポーツ以外にも通じる部分があると感じる。

自分は手抜きが多いがこれだけはきちんとやる、全力で取り組まねばならないことが目の前にあるという純粋な気持ちを思い出させてくれる。

https://youtu.be/yJV68ERVYRI?si=_rN7xQFWmqmHT1L0