さぁー。(なに?)
国語大問3 古文 『宇治拾遺物語』のかなり有名な出典。改変あり。注多め。
(文法1) 謙譲語補助動詞「たてまつる」丁寧語補助動詞「さぶらふ」をチェックする。
尊敬語は筆者から動作の為し手への敬意。話題にいる主語の人(〜が)への敬意。
謙譲語は筆者から動作の受け手への敬意。話題にいる目的語(〜を、〜に、〜と)の人への敬意。
丁寧語は筆者(会話文中では話し手)から読者(聞き手)への敬意。場にいる相手の人への敬意。
敬語を3つ連ねるときは謙→尊→丁の順となる。
(ところで古文に敬語が地の文で出てくるのってどうしてなのかな?それはひょっとして古文が筆者のしゃべっていることばだとしたらとっても自然に感じられる。古文はしゃべっていることばを誰かが必死になって写し手書きしたものであってしゃべっている(その)まんまの言葉がそこにあるんだって想像してみる。例えば、「コーチえのもとがお話しをされて、」というように話者が敬語を用いているのだと考えてみるのはどうかな。)
(文法2) ・「つ/ぬ + 推量系助動詞」は 「きっと〜だろう」と訳すというのはよくある間違い。「つらん」 はそうなることもあるがそれだけではない。
・「つらん」は「つ」が完了で「らむ」が現在のことに関する推量だから「〜してしまっただろう」もよくある。まとめると、「つ・ぬ 」+「らむ ・めり・なり・らし」は、「タ・テシマッタ」+現在のことに関する推量もよくある。
・「〜なりけり」の「なり」は断定。伝聞推定「なり」は助動詞群で下に来ることからもわかる。
(文法3) ・接続助詞の「に」(=「を」)は順接も逆接もある。偶然接続もある。後を読むまで訳は決まらない。「体言+に」が「〜する」につながるなら格助詞の「に」。そうでなければ「活用語+に」で接続助詞の「に」。「〜すると、ところ、ところが(偶然接続)、ので、(順接)、が、けれども、のに(逆接)」と訳す。(というような、教科書や学校で教わらないことは授業とプリントで正確に可能性を伝えている。教科書や参考書に書いてあることはよく見てよく考えておくように伝えている。)
・便宜上最初は訳を伝え分類や品詞を伝える。そして慣れて来たら本当の読み方にぐっとまとめていく。私は 「述語を」や「述語に」で「と、」 「ところ、」 「ところが、」 「だけど、」「 ので、」「から、」などとあてはめるような仕方では読まない。
それから、ば ど に を が の後で主語が変わると書いている本がいっぱいあるが全部間違いである。
実際には完璧なまでに、助詞の ば ど に を が と主語は何の関係もない。このことだけは大事だからあと100回は書く予定。
実際この会場模試でも「ばどにをが」のあとで主語が変わらない場合のケースが正解になる主語を補う設問がしっかり出題されている。実際は変わる変わらないはどちらも同じくらい単純に統計上ではあるのであって、「をにばばどもが」の後で主語の主語とをにばばどもがに連関はない。変なたとえだが、寒さとインフルエンザの方がまだ連関はあるかもしれないが寒さとインフルエンザの間に因果関係はないのと同じく、「ばどにをが」と主語キープか変わるかには何の連関もない。
英語の、分詞が副詞的である文(教科書で言うところの分詞構文)だったらどう読むかな? せっかく目にふれるふたつのものだがその仕組みには共通点がある。 まずもって、両者ともに点がついていることが多いのが実に興味深い。この点は区切る点なんだ。訳出をどうするのかよりも読みを行うときにもっと大切な着眼点はむしろこの小さい点の働きの方にある。、をつけられた方は引き離され、結果、まとまりを持つ。
ちょうど「 、をつけられた方は引き離され」の部分のようにまとまっている。
もっといえば実際には古文原典の方には点はないのであって後世の人や出題者たちが勝手に点を施して現代文に近づけて読みやすくしているにすぎない。
古文には句読点もかぎかっこもない。
ということは、述語をまとめているのはだれなんだ?
、はないから、ではない。
「ばどにをが」ではないと書いてある。それが本当ならだれが述語をまとめているんだ。
わかった!
終止形と命令形だ
走る。
走る。
おれーたーちー。
きれめを感じさせるのは活用語の終止形だな。
近い。
とてもいいね。
後少しでバッチリです。
結論だけ先に言えば80パーセントほどは「をにばばどもが」の上にあるもので、それは、結局のところ、ぶっちゃけ、
正解は、
ずばり言うわよ。
聞きたい?
聞きたい人?
誰もいないか。
已然形と連体形。(あれ・・・)
・実は私は、「〜を」 「〜に」をそのような訳にはめて読むような仕方はしていない。それでは外国語を翻訳しているみたいな外からの捉え方までいったん客体化しすぎている。「〜を」は 「〜を」のままに 「〜に」は 「〜に」のままに読んでいる。塾生にはじめに教えることは型であって分類であるがそれは最初のやり方をとりあえずマスターするためであって掴んできたらでもそんな分類はいるのかな?という問題提議をしている。「を」「に」「が」はもともとが格助詞である。
・ 英文、現代文、古文で「対象化」を伝え「客体化」を伝えた後に「〜を」は 「〜を自分の正面において見えるようにする」 (授業のときはある動きを目の前でする)という「を」本来の意味にまでさかのぼっていけたら古文が読めるようになる。
いわば分類をこえたところに真の読みがある。
・同じく 「〜に」は 「〜に対して」と読む。(授業のときはある動きを目の前でする)これができるようになると線を引いたりしなくても古文のままに古文が読めるようになっていく。
・「ば・ど・に・を・が」を句点に変え「て・して・で・つつ・ながら」を読点に変えるような機械的な読みはあくまで古文読解のはじめの一歩であって(実際にはあやまったはじめの一歩めにむかってしまうのだが)古文の読みの全部ではまったくない。
線を引きながら分析するのは複雑な文を読むとき白紙にして考えてみたいときだけでよく、本来は句読点をいれなくとも1000年前の日本人がしていたのと同じような読み方に近づいていくことができる。
(過去の日記の「ばどにをが」または「をにばばどもが」などの文字を検索ボックスからどうぞ。)
・分類は文法の道具だが分類自体が目的化するのはよくない。文法をつかって文法の先にある対象自体にもっと密着したい。読みにはミクロとマクロがあってマクロは外との関係で意味を掴む方法、ミクロは「を」のハタラキ自体に密着するような仕方である。その両方を同時並行で行うのが真の読解に他ならず現代文や外国語を読むときに私たちはそのような行ったり来たり立ち止まったり戻ったり先にジャンプしたりしながら読みをつくってゆくものだ。
(古文常識) 山と言えば比叡山(高いこぶが2つの山)。花といえば桜。本文は普甲山。
強い人は、強い人を知るという話。
「武士一騎」は「騎馬戦」の「騎」で考え、馬一頭と人のセット。
古文は平安時代などの京都 > 田舎などの差別の多かった時代の話。現代事情に即しては読み取れない内容。「人」と「方」は「方」の方が人間を上に見ているというような常識はないよりはあった方がよい。
(古文読解) ・動詞が意味を決める。「咎む」は「SがOを咎む」だから、白髪の武士が無礼にも馬から降りないことを、SがO(=この翁)を咎む」と読める。主語が書かれない場合は自分で補う。古文の格助詞の「が」と「を」と「は」と「の」は書かれないことが多い(→一語の助詞の「をがは」は書かれない)から必要に応じて補う。「に」は通常省かない。(「田舎者であって礼儀などの詳しいことを知らない」と注があることはダメ押しのヒントとしてつけてある。したがって高校入試の古文読解がいつもそうであるように、現代文の読解と解き方と大きく変わらないように作問してある。濁点も句読点も鍵かっこもあり漢字もいっぱい書いてある。)
・「名詞は、」は主語ではなく「名詞については、」である。(「ぼくはアイスコーヒーで、」が主語の「は」だったらアイスコーヒーの声が聞こえていることになる。) 主語になるような格が決まる助詞は格助詞という。「は」「も」は格助詞ではなくかかり助詞。
「紅茶は(持ち上げながら)、すき。」と取り上げるのが「は」の用法。
(自己紹介で)「わたしは(立ち上がりながら 前に出ながら)立候補したH.F.K.です。」
・「名詞も、」は主語とは限らず「名詞をも」の「も」もある。(「コーヒーも飲みたい」が主語だったらコーヒーの声が聞こえていることになる。)
「も」も格が決まらない助詞で、係り助詞である。主格、目的格、補格は自分で考える。
・「Sが」「→とがむ」という述語に着地して、
「Oを」が「→とがむ」という述語に着地するという部分がわかったら古文の読解のほぼすべては完了する。
意味がわかりにくく説明を自分でしたい場合には、述語とくに動詞を手がかりにして格助詞の部分を足して埋めて読んでいくとよい。
問1 主語の把握。前回書いたが、「を」「に」「ば」「ど」「が」で主語が変わるという迷信がある。
ずばり言うわよ。
そんなルールはありえない。
「ラーメン大を二杯食べたが私は食べすぎただなんて思わなかった」
ね、迷信。本文でも同様。そのことを例示したい例解したいと訴えるかのような良問。(※) 「接続助詞「て」「で」の前後では通常主語が変わらない」と同じくらいの感覚で「ばどにをが」の前後では通常主語が変わるのだという迷信がどうやらあるようだ。全部×で、正しくは、
「て、で」の上に敬語と時制はなくまだ下の述語と意味上つながっている、一連の述語をつくっていく途中、切ってはならない。本当のことは主語が変わる変わらないではなく連用形までがまとまるのか(NO)、連体形までがまとまるのか(YES)、已然形までがまとまるのか(YES)の方にある。
焦点がずれすぎていて、こんな迷信はひどすぎて、てんでお話にならない。
「用言+ば/ど/に/を/が/ほどになどの時の言葉」で意味がまとまったので、下のもうひとつの述語にかかっていく。としてもまだまだ雑すぎて使えるルールではありえない。こんなことをルール化して伝えるなんて・・・あいた・くちが・ふさがらない・・・。
・どうまとまったのかと言えば、それが「を」と「に」と「が」の処理で先にも何回か書いたようなことだ。
・この「を」と「に」は対象化するということを身体で覚えたい。教室で伝える読みはそこにある。
古文と国語文法をするとき私は活用形の力を伝えることに全エナジーを集中させている。
国語大問4 作文 資料の項目名は要約して書く。(前回まで同様のポイント)「要約は東大現代文でも毎年必ず出題されてきたことからも感じられるように読解で大事な意味をもつことである。そこを」含めているのが県の入試問題である。
いま口語で書いたのを古文で「〜しを」などとたしかに覚えていることを示す助動詞「し」をつかって過去と現在の対比で書く。
ここまで一気に飛ばし読みされているな。
よいよい。
さー。
学校選択問題 数学 文字が読みやすい。
大問4では、図形的に解くだけでなく座標を文字でおいて計算する方をまた問うている。1/2a差差差のような一発公式が通用しないという意味での良問。
大問5(2)②に来た時点で時間が10分以上あったかどうかがポイント。10分なかった場合は解答速度をアップさせる必要があるだろう。
最終問題、大問5(2)②は相似でなく中2までの分野からの出題。超良問。知識でなく手と頭で考える。初等幾何に向き合っていたかを問うている。大問4(3)同様に、「定量化、定式化」という中学数学最大の山場の技術を真正面から問うている。この会場模試は本当の数学力を測る良問になっている。
学校選択問題 英語 文字が読みやすい。この会場模試は本当の英語力を問う良問。長い文を読み長い文を書いたり聴いたりする実戦的な総合問題になっている。細かい記述式でしか尋ねられない本当の英語力を問うものになっている。
大問3 1パラグラフ。情報→逆接→主張。副詞 however にしるし。テーマ提示とメッセージ提示。
3パラグラフ remind A of B. inform A of B 同様、about の意味の of を含む句動詞「BについてAにVする」。even は逆接を含む。普通は水を飲んで人は死なない。しかし汚い水を飲んで人が死んでいる。
追加のマーカー another にしるし。
6パラグラフ another にしるし。for example の後が具体例(せまいこと)。前が抽象(ひろいこと)。opposite にしるし。一部が同じで一部が変わる。水が同じで少ないと多いが反対。
大問4 作文は下書き欄の形で練習するとよい。50語程度とあるので40語以上必ず書いて最後の一行に5、6語までなら書いてよい。できるなら55字書く。
写真は光塾生全員の平均。
受験した会場模試の結果の写真。
数字を公開できるような指導、授業を私は行っています。
全県得点平均というのはこの会場模擬試験を受験した全受験者の平均点。たとえば英語では全受験者平均が28.0点というように読める。
(数字は最も説得力のある具体化(←ブログ読解・論述主義。広告10000枚まくより1回の数字公表に説得力がある、読むかたが読めば。)
(※1)ところが、「ば、ど、に、を、がでドン!」などと書いてある参考書問題集は非常に多い。
(※2)和歌の中には「活用語+が」は出てこない。 が、がところがになっているような用例がではじめるのが1100年頃。よって、時期や出典にもよるが一般論として「-が」、は 「-ところが、」で読まない方がいい。
(※3)接続助詞「て」「で」の前後では通常主語が変わらない。も、同じく大いなる誤り。「ぼくの名前はヤー坊で、君の名前はマー坊。二人合わせてヤンマーだ。」「マーボウが赤い服を着て、ヤーボウが緑の服を着ていた。」変わらないと信じるだなんて、いったいなんたる誤謬。
(プラス) 文末や。 は文中「や」より難しくなる。
うらめしや。
疑問33 反語33 詠嘆33で考える.残り1パーもとより感覚的な数字なりければよき(ところ/の)におかむ。確率より自分の頭にてぞ。
(反対に、ダチョウ倶楽部のいきなり「やー」はどうしよう。
卓球の愛ちゃんのいきなり「さー」みたいなもので文末 や とは だいぶ違う。)
それではこのへんで。
やー。