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光の授業は無学年式 |上尾市にある学習塾|光塾 | 選択肢問題の唯一の正しい解き方 大学入試共通テスト, 全国模試受験の戦術

ファイトファイトー

ファイト ファイトー

はいろ はいろー。

ファイト ファイトー

ふぁいやふぁいやー。

ファイト ファイトー。

 ワイドハイター ワイドハイター 🎶

 ワイドハイター ワイドハイター 🎶

テニスの練習中に違う言葉を叫んで闘魂注入してた、私、光です。

 

普段あまり書いてこなかったことを書こう。

国語英語などで選択肢を選ぶ問題で正解を選ぶのが上手くなる方法がある。いや、話は何も国語に限ったことではない。大学入試共通テストの英語の設問と実用英語技能検定(英検)やケンブリッジ英語検定、GTEC、IELTS、TEAP、TOFELなど民間各種英語試験の設問処理の原則となる。

 

その方法はたった一つしかないわりに明確に言われていることが少ない。

本当によい参考書、それはもちろん独学図書であるわけだが、には確かに書かれていることが多い。

 

あるいはまた、本を読んで知らなくても、自分が問題を解くだけでなく自分で設問を作って見ればすぐにわかることだ。

 

設問に対して答えがまずある。これは本文を主体的に精読した上で発見してゆく真の答えである。(いや実は四角や傍線があればこんなことを聞いてくるだろうという問いの予測さえできる。)

それに対して記述でなく選択肢で四択式の問題があるとする。

このときまず真の答えは、ぼかして用意されている。

正解の選択肢はかくれんぼのように頭隠して尻隠さずでなく、できるだけ全身を隠しておかれている。

問題作成者としては正解の選択肢は一見すると間違いであるかのように思われるような仕方で目立たぬように表現しておきたい。

少しずらしたり少し強くしたり少し弱くしたりする。この少しというところはいろいろの工夫が可能である。

 

一方、ダミーとしてひっかけるための不正解の肢の方では、真の答えの一部だけを少しだけ偽のものに変える。テーマだけを変えたり結論だけを反対にしたり、あるいは別の言い方をすれば主語だけ変えたり述語だけ変えたりする。

他には副詞や助動詞などをつけて意味をできるなら(あくまでもしできるなら)ほんの少しだけ変えておく。

他にも、本文のどこかに言葉はあるが無関係の語をもってきてくっつけているダミーや、本文にないでっちあげの言葉をつけたダミーなどなど。

それと同時にあたかも正解に見えるように堂々とおいておきたい。

正しい答えを変化させて不正解のダミーにしていく際には、真の答えから十分遠ざかるようではあるのだがその遠ざけ方たるや、難度の高い設問ほど巧妙であって、もし先に真の解答を用意せずに印字されたダミーを読んでしまうなら引っかかってしまうようなものにしておくと難度が高くなる。

真の答えとダミーとはミツオくんとミツオくんのコピーロボットほどには似ていないが、それでも真の答えにかなり近いようなダミーにしてある。

かくして正解はひっそりと隠されて不正解がわざとらしくアピールしてきて選択肢を見て考えるようなやり方では振り回される現象が起きる。仮にこのような解き方を相手本位の解き方と呼ぶ。

 

さきにたったひとつの方法と書いたが、そのような厳しい状況下で答えを探す唯一の方法は存在する。

それはぶれない自分の主体的な読みを行い、記述しておくことである。客観式問題を解く仕方が主観的読みを行うことだなんて矛盾するようだが、そうではない。

客観式問題というのは選択肢の中から最適解を選ぶという意味での客観式であって主体的に読み取った読解を捨てることではいささかもない。

いや、選択肢が巧妙であればあるほどかえって要求されるのは設問に振り回されない確固とした自分の読み解きである。かくして、選ぶことをしなければしないほど正解できるということになる。

あれこれ考えながら総合的に読むということが要求される。

そして正解は大体のイメージを思い描くくらいの曖昧模糊としたものではよくない。

本文解釈を一読しただけで正確に実行できるようになるまで常日頃から読解の練習、修業をしておく。

本文を二度も三度も読むような仕方は速読から遠く離れてしまうので試験本番では点数にならない。

 

早いのうまいのやっすいのーが牛丼の条件でもしいいとしたら(もちろんそれがいい牛丼の条件ではないが、あくまでノリで)、

速いのうまいの正しいのー な自分の答え

をあらかじめ用意してから選択肢の解答作業にあたる、というのが唯一無二の方法であるだろう。正解は選択肢の中から選ばない。

正解は主観的な読みの中にすでにしてあり、それと同じ選択肢を正解とする。

 

自分の読みを行う前に先に選択肢を見ることはダミーに振り回されることになり、むしろ邪魔をされる、無駄な行為である。

選択肢はあくまで選択肢でありその中から自分の正しい読みに近いものを選ぶという姿勢がちょうどいい。

 

ここでもまた自分の考え、自分の読みを持つという確固たる自己の考えを持つことが要求されているのだ。一言で言えば客観式問題の正しい読み方は主体的に読むということである。

 

もちろんテキストの内容についての正しい読みであって自分の見解、主義主張、言いたいこと、理念などというものの出る幕ではないことはあたりまえだのクロックス。それは小論文や作文、表現の方の試験で要求されるものであって現代文や英文読解問題で求められるものではない。

 

あらゆる現代文や英文読解問題で要求されるのはテキストに何が書かれていたかを正確につかむ力である。

自分ならこういうように考えこういうように書くというような発想は復習時ではいろいろ考えてよいだろうが、筆者の主張を追跡するというのが目的である読解問題を解く段階では自分ならこう考えるという部分はまだ出さなくて良い。そこが日常会話と現代文の違いでもある。

対話の相手はもう一人いて筆者以外に選択肢を作っている人間も相手にいる。

相手が正解としたい選択肢がどれなのかをみつけることが解答するという作業である。

往々にして人は他人の意見を聞く前に自分の意見を言うものだが現代文で問われるのは筆者の考えをどこまで掴めたかという方の能力であることは大前提である。さらに設問を作り解答やダミー選択肢を作る出題者との対話能力も要求される。

本文を読む際には、筆者の論理の運びに目を凝らし耳を傾けて筆者の見解をキャッチするところに読みの目的を集中させてゆく。

設問を解くときには出題者の意図をもよく読み解き、あるはずの正解を選択する。復習ではダミーの選択肢はどのようなことをして正解でなくなったのかその分析まで行うことが効果的である。

ありとある論理を使ってだまそうとしている選択肢の誤りを見抜き、不正解としてさばくことは、現代社会で情報の渦の中から正しい道を見つけて進むことにも繋がっている。

それだからこそ現代文を教科の一つとして学校で指定しているわけだ。

 

くどいのがブログなのでもう一回書く。

選択肢の中から選ぶようではいけない。

答えまで読んでおく。

復習では四角や傍線があれば自分で問いも立てる。

 

よく言われることだが現実社会にはただひとつの正解というのがない。

現実社会には問いもなく自問自答せずに暮らすことも人に聞いて従うことも他にもいろいろなことができる。

国語読解や英文読解の問題には問いと答えが用意されておいてある。(つづく)

 

plus きょうの中2古文 

not A or B / not A and B / 怠りて切り休むべからず 

等位接続詞と打消のコラボの確認。

光の授業では英語と現代文と古文と数学の論理は同時に扱う。本来つながったものを教科で切ることには損失しかない。

 

順番に、

Aない Bない /

(AしてBする)ということがない /

(サボって切るのを休むの)をしてはならない /

が正しい。

他にも neither A nor B はなぜあるのか 、

either A or Bと A or Bの違いは何?

not both A and Bの意味

など似て非なる表現との差などを確認した。

この子もまた復習音読繰り返す主義の子でクイズ全問正解だった。

古文は 『発心集』 巻二の十三 で 休まないで続けたらいつかは辿り着くという元祖『ショーシャンクの空に』。

「べし」 も可能で 「る、らる」も可能

違いは何か?

「べし」は基本的に推量だから「可能」でなく「可能推量」の含みが強い。

できるだろう/できないだろう。

 

「それをずっと続けたらできるだろう」 とは深イイ話だが、これがまた言うは易く行うは・・・。

 

光の授業は受験教科内での無教科枠解説方式。

といっても混ぜているだけで、「已然形+ば」をふつうは、「と、ところ、ので」と辞書に載っているのを光は、「已然形+ば は、becauseかand。どちらなのかは自分で考える」という。セルフでやるべきことを伝えるところが一味も二味も違う。

and と言われたから and と思うのは勉強ではなくおうむである。

 

同じく、古文で、

「「ほどに、」は while when during.のように言う。どれなのかは自分で考える。」という。

while they are running.の S be 省略が多く while running をよく用いて during running とは言わない。

while もさらに省いて 副詞的に , running もあり得る。分詞構文と言われることの多い, running は「ほどに、」や「連体形 に、」に近くいろんな意味になる。のような説明はよくありそれにさらに漢文の時の表現などが混ざる。英語で書かれた日本古典の本なども参考に読むと面白い。

 

おうむは夜におはようという。

「ここから先をさらに自分の頭で考える」が光の授業には必ず入る。

そこが積もり積もって繰り返しくりかえしあらゆる場面で徹底されているのが光の授業。

 

自分で読めるようになるにはどことどこが同じでどことどこが反対か自分の頭で考える。

この引用は何を論じたい?

この具体例は何を論じたい?

判断が必要なところはどこなのかは知らせるがその先実際どっちなのかは一度自分で考える。

そのことがセルフラーニングの真の意味なのだ。

自分で考えないとどうしようもないよということはあまりに多い。

本当に。

 

無学年式も。

入試のときに問題は総合になっていて何年生の単元なんていう区分は明示されない。

それはなぜかと言えば社会は常に混沌としていて区分されていないわけでそれをとらえる学問や教科のほうも今までの boundary, 境界を広げてゆくような仕方で expand,  拡大していく。

テキストで単元別にできるのはまとめを真似しているだけで枠組みのガイドを外されると何をしたらいいのかわからなくなりがちだ。

問題はいつだってまず自分で大きな枠なり構造なりをみつけてみるような森を見る視点が大切である。

メガネをなくしているときに部屋の隅から順にペンキを塗るみたいに探していく人はいない。

まずは机の上や寝る枕のそばなどありそうなところの目星をつけてそこを先に探すはずだ。

ものの見方をよくしていくときに学年の枠ここまでだけを伝えるという縛りはあきらかに邪魔になる。

まず枠組みを提示する。

「けり」なら 「たしかでない記憶」と「たしかでなかったことにいま気づいたという詠嘆」がある。

その中のいまはたしかでない記憶の方で書いてある。対比して「き」は「たしかな記憶」だと伝えたらそーか記憶にもたしかに分ければ2種類の分け方がありうるなと世界が広がる。

そして「けり」の守備範囲は「き」と分けることによってますますここからここまでというようにみえてくる。「き」と「けり」の線引きがあって「けり」がもっとよくとらえられるようになる。

対比はこのようにものを理解する非常によい相対化のツールになる。

 

doingのかたまりなら名詞形容詞副詞になって動詞にならないという可能性、参照すべき目次のようなものを頭の中にもっておくことが大切だ。

木を見て森を見ないようにならないよう、学年の枠などとっぱらって世界のできるだけ広いところまで見える可しておく、その地図の中のいまはここをやっているというものをもっておくことが有益だ。

社会の現象を一つの角度から見るだけでなくできるだけたくさんの窓からみてできるだけ俯瞰して全体像を見るというようなところが自分の知の境界を広げていこうとするときにも役にたつ。そのframeは使うごとに磨かれ、もっと便利な道具になっていく、俺の見方はきょうはこういう見方でとらえられる、私の見方はきょうはこういうものさしになっていてそのものさしは5cmも測定できるが同時に3mでも3kmでも測定できるような伸び縮みできるようなものがいい。

 

数学の分数をおしえるときに定規の目盛りをみながらこれが5つにわけたうちの3つ分と教える時にそのような目盛りでは指し示すことができない数(無理数)の実在することもイメージとしては伝える。

子どもはここはテストにでない話なんだけどというとグッと耳を立てて集中してくるものだ。

いくつに分けてもその何個めまでとして表せない量なんてあるんだっけ?と考えるだけでもそれは逆に区切ってここまでと決まる数=分数の理解にも役にたつ。

虹の色が7色なのは虹を6本の仕切りで機械的に切ったからだということと似ている。虹が何色なのかを表すのは言語や文化ごとにもだいぶ違いが見られる。ホールのケーキだって6つぎりでも7つぎりでも何ギリでもある程度までできるだろう。

 

虹は七色とすり込んで虹を七色に分けること、は世界を分けること、世界を文節化することにつながっていって、いろんなイメージとつながっていく。テストにでないことなんて無駄、教わりたくないという人がいるとしたら私は言いたい。いろんなことを考えた後にはそのテストの問題の枠組みや体系、構造が俯瞰できて結局問題もかんたんに解決しやすくなるものなのだよ、と。

 

音を奏でるときにピアノの白い鍵盤だけで奏でるのと黒い鍵盤も使うのとで世界が変わっていくのも話がつながっている。絵の具のようにどんなに足しても白の鍵盤では黒の音は出ないのだから。

 

「どどれれみふぁふぁそそららしど の中の

ドレミファソラシドをきょうは扱うよ」とひとつさきのフロンティアまで見える、たとえ見えなくても感じられるような伝え方を私はいつもしたい、それをいつもこころがけている。

 

数学なら別解. 模範解答と同じ解法でだれもが解くとは限らない. 私のやり方だとどこがおかしいのか. Pである確率を出すのとPでない確率を求めるのはどちらがどれほど容易いのかも並べてやってみて初めて理解できる。
赤い玉が3つあるときにR1 R2 R3 と違う3つの玉と区別して解くのと たんに赤が出たと解くので何がどう変わるのか.
それは両方の解答をやってみて見比べてはじめてその意味が理解できるものだ.
数学では別解の可能性は出来る限り多数示したい.

現代文なら解答モデルまで示したい。採点基準を示したい。対比を見落とすとAに気付けない。引用したことで主張した論を見逃すとBに気付けない etc. 要約を示したい。全体の中で設問はどこに関するものなのかを把握することで答えるべき範囲が確定する。

こんなことをやっているのでプリントがどんどん膨大になっていく。

扱った一題について日本一把握していると言えるくらいまでいろいろなことを考え広く深く見て力をつけて欲しいから。

 

闘いだと思っている。AとZがまさか同じことを指していただなんてというのがあればそれは指摘しておきたい。6度め、12度めに気づいてもいい。

 

論の運びのうまいところは何度でも鑑賞したい。

ちょうど好きな歌をなんどでもなんどでも聴きたくあるように。