書店で『君は松井かイチローか』という書籍を手にとったとき、私は答えた。両者とも好きだけど幸か不幸か私は私だと。誰でもそうだが自分には自分がある。許されるならM1グランプリのタクローみたいに両方取るような欲張りな人でありたい。私は松井とイチローと私だよとナンシーに伝えておいてくれないかな。
時折(あくまで時折だが)、自分の見解を会話で話すときに、自分の見解と同じ方向性でしかも一歩先まで考えている人がいることを知る。
包まれるような感覚、同じことを考えている人がいたんだー、こう考える人は少数派と分かっているので口に出さなかったけれど、同志って言葉の意味を初めて知ったというような気持ちになる。
しかもそれが外見ではまったくそうと気づかないようだった時、外見ではあくまで多勢派のようにしか見えない人だった時、暖かい空間に囲まれる。
そういうことがあってこれからもいつも自分の目で見て自分の手で考えて自分の足で調べて生きていこうと思う。自分の感じたこと、考えたことを突き詰めてゆきたいと思う。
人や親が決めたことだけでなく。
plus ブログ 「名もなき詩」
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plus 「已然形+ば」は試験に最も出る助詞だ。理由を表す。◯◯の試験に出る第一位が内容説明どういうことか。◯◯の試験に出る第二位が理由説明だからさ。(ひかり調べ)(◯◯は授業ではしゃべる。)
ので から と ところ
一見つながりがないが少し考えるとすべて「→関係」(先と後)に過ぎないとわかる。
確定条件だ すでにしたことだから「確定」の条件という(反対はまだしていなくてこれからもししたらの「仮定」条件)
順接だ P→Q はQがあと(反対は逆接でP↔︎Q)
「PばQ」もQがあと
もう一度2つを考慮して訳は
「已然形+ば」は「ので から と ところ」と訳す。
例
ところざわにてところにあへばうれしかりかり
トコロザワデトコロサンニアッタノデウレシカッタ。(1)
トコロザワデトコロサンニアウトウレシカッタ。(2)
似たような訳だね。(1)で訳出しておかしかったら(2)でいい。
plus 現代文、英文などの読解で論理は正しく用いたい。客観的に読むこと、論理的に読むことが読解の方法だとするならば、読解で筆者が重要な内容として述べている表現をそのようなものとして、形式を重んじてその表現の形式の通りに読むのが方法になる。
筆者が重要なこととして述べる場合に主な表現上の手法は次の6点だけになるだろう。
1、同値、要約 : A=Aの関係による。具体を抽象化して説明し、抽象を具体化して説明する。具体は交換できない。
2、対立 : A←→Bの関係による。対立することでAを強調する。
3、例示 : A=a1, a2の関係による。具体例は交換できる。
4、並列、分類 : (A1+A2)、(A1+A2)の関係による。(A1、A2の同値対立)、(先のA1、後のA1の同値対立)まで読み取らねばならない。
5、因果 : A0 → A1 (A0がA1を生み出す)の関係による。論拠A0のない主張は「叫び」あるいは神話(myth 根拠なく信じられている話)にすぎない。
6、強調、主観 : かもしれない
(7、定義やテーマ提示、導入: 文章前半や言葉の定義の部分では重要である。)
そのうち、3、5、6、はあまりに多くの表現があるが注意深く耳を澄ませば聞こえてくる。見逃されることは少ない。
誤読を生じる原因の多くは、1、2、4、とりわけ対立と同値を見逃すことはそのまま誤読につながる。
抽象的で哲学的な議論を進める場合には抽象語が多くなる。評論文で対立を最重要視して読まねばならないのはこのことによる。
そのための方法を個別に毎回練習している。
たとえば、「急がば回れ」のような逆説を理解するのには2対立と5因果が使われる。急ぐことと回ることは一見対立関係にあるが内容は正しいことがある。その理由として急ぐ道にはリスクがつきものだからである。つまり回った方が早いからである。
同値では、逆、裏、対偶といった基本的なものから矛盾、逆説などのやや複雑なものまでさまざまの表現があり意識的な練習を重ねている。
一例を挙げると、
「AならばB」の裏返しは
「AでないならBでない」
これは真偽が元の命題に一致しないこともあれば一致することもある。
現代文では内容が元の命題と一致していることとして繰り返し表現をして強調をする形でよく書かれている。
裏返しが同値になっているということだ。
「BでないならAでない」は論理の基本、対偶で必ず元の命題と真偽が一致する。
人間は本能的に否定的な表現をややこしく感じるので対偶を考えて肯定で考えるとシンプルに感じられることが多い。
まとめ
元の命題が真のとき
逆は必ずしも真ならず
裏は必ずしも真ならず
対偶は必ず真
まとめ2
書いてあるのことが全体を比べてもまだわからないときは具体化してみる、抽象化してみる、対立を考えてみる。裏を考えてみる。対偶を考えてみる。そこまでやってから全体を比べたらわかりやすくなる。
plus 現代文と英文で毎回のように確認していることがある。述語の論理パターンである。
1、Sだ。 Sの存在を認定している。
例1) 電話で、「私です。」「あー、イチローさんですね。」
英語ではbe動詞を用いる。
例2)(ヘレンケラー)「水」 Water.
1' 、SがVする。主体以外の実体は存在しない。
自動詞を用いる。
例3) 「朝だ。」「朝がくる。」Here comes the sun.
(例4)「なんとか生きて」
2、SはCだ。Sの定義、Sの性質。S=Cの同値関係。
(例1)「想い出は歩いてきた証だ。」
英語ではbe動詞を用いる。
(例2)「まだ消えちゃいないよ」
(例3) 「私はきょうも小さくなってます」
(例4)「我らは尊い」
3、SがOに影響を及ぼす。主体以外に客体(英語では、遠くに投げられたものと書く)が存在する。
他動詞を用いる。
S←→Oの対立関係に基づく。さらに5P→Qも関わっている。
(例1)「宝物をさがす。」
(例2)「希望をなんとか信じて」
(例3) 「まだ伝えてないよ 今日の分の だいすきを」
文型というもっとも基本的なことがさらに同値と対立、因果という最も基本的な論理に支えられている。
このことは学年に関係なく一題以上クイズに入れて含めて確認しており、マスターするまで永遠に確認を続けている。
1、2の述語形式に使われているbeという動詞は他の動詞と比べてどこが極めて特殊なのか。
あるは、beだけ。詩的言葉のほとんどがbe動詞だけで表現されうる。「あった」という「存在」の不思議、あると気付いた感動がbe。
「・・・なのである」という日本語が筆者の主観を表すのによく用いられるのはなぜなのか。
「高くある。」それから高くある→「高い。」はどういう述語の論理形式を用いているのか。SがCであるという定義、説明、要約以前に「Cだったか。」という「気づき」がbeにはある。その過去バージョンが「けり」(あったのか!という気づき)だ。
論理の基本であり、このようなことを毎回確認している。
同値と対立は論理の基礎のキソ、どんな言語を使うときでも証明でも推論でも論理が土台にあり、その関係、仕組みを知るのは実におもしろい。
(例の大半を Soranji by Mrs. Green Apple から引用)
plus 「それはどういうことなの?」は入試に最もよく出る出題形式であるわけだが。。。
「傍線部はどういうことか、具体的に説明しなさい。」(⭐︎)に解答する際にどういう姿勢で書けばよいのか。
この設問タイプは設問の形式中最も多いだけに勘違いはダメージが大きい。
まず説明には大別し、具体的な方へ向かう説明と抽象的な方へ向かう説明とがある。そのうちの前者、具体性が上がる方向で述べるというのが正しい。
ところで、よくある、非常によく見られる、間違い方として具体例を書いてしまう人がいる。
具体例と具体説明は言葉が似ているので勝手に同じことだと誤読、誤解したためであろう。
具体例とは交換可能なもので個別のものであるが、それを一つ挙げよという設問意図は⭐︎には全くない。
具体的な説明と具体例はまったく違っている。
具体的な説明の方は換えの効かない筆者のしたままの説明のことであり、何かの例とはまったく異なる。
具体説明部分は論と同値である。
具体説明の意味を知っておくことは同値と合わせて読解のための最重要事項である。
ヒカリは、これまでここで何回も書いたが、授業をする際には現代文読解と古典読解、英文読解どれでもある程度共通した一般的な論理を説明に用いる。客観的読解、論理的読解を行うことが論理思考スキルの養成にもつながるからである。
日本語の評論文に少なく英文読解にしかない特徴的なことなど(たとえば英文の評論文では第一、第二パラグラフまでにトピックセンテンス(文章テーマ)をおくこと、文と文を接続する位置に文法的な約束から接続詞が置かれるせいで論理マーカーの数が多めに出現しがちであることの2点が極めて英語的である)の特異な点も明らかになり対照的に俯瞰することでいっそう論理的思考ができるようになる。
教科によって用いる論理の区分をあらかじめ分けておくというのもそれはそれで可能であろうが、より多角的視点、より俯瞰の視点から各教科を見ておくのも練習上の効果が極めて大きいことである。対象はいつだって混合で混沌とした世界の全体であって難問に立ち向かう際にそういう訓練が役に立つに違いないと信じている。
最後に論理の落とし穴について書いておきたい。
plus 論理はいつどこに発生するのか。
逆説 : 急がば回れ。のように対立関係と因果関係が同居する状態。
の、またその話。なぜなら定説を書いても仕方がない。
木を見て森を見ずとはよく言ったもので、森を見ないと木がわからない。
論理と書くと論理が先にあって文章があるように思われがちだが私はそのようには論理を見ていない。先にあるのはいつだって言葉であって全体である。
さいごまで聞かないと何を言ってるのかわかりようがないのと同様文章は最後まで読まないと何を言ってるかわからないように書かれているものだ。
歯ブラシだけ見てもその人の生活で虫歯ができやすいか否かがわかるはずがないのと同じく、全体をみなければ部分がわからない。
といったことはよく言われる。
まったくその通りだと思う。
全体を見なければ部分の要点はわからない。
分析が過ぎると視点がアリのような狭い視野を持つ小さなリーチになり、鳥のような大きな視界が持てなくなるために要点がつかめなくなる。
部分の和が全体であるのは形式上はそうだが内容面では全体が先にあって部分が、後からはじめて、意味を持つ。
一度通読した後に部分に戻って筆者が重要なこととして述べたことは現れる。
読みながら形式だけから重要点に線を引くということなどをすればするほど全体が見えなくなり本来は全体をあちこちキョロキョロしたらすぐに気づくはずの流れであり要点であったはずのものが見逃されてしまう。
論理というのは全体を通して見てはじめて生じるようなものだと私は思っている。
要点に線を引くなどの作業は最低でも次の段落くらいまで読んだあとでなければ振り返ってどこが要点だったのかはわからないものだ。
卵が先か鶏が先かの話と同じではなく全体があってはじめて部分が意味を持つ。だから、読解ではできえるだけ広く見て関係を掴むことが求められる。