春までの継続的反復的な日々の成果が返ってきた。いざ闘い、会場模試の結果。今回はこの学年はじめて中3の光子全員が受験していた。
あまりに当たり前なことだが入試本番は鳥の目で闘う。本文、問題文、設問、リード文、注を俯瞰的に見てその場で思考、判断する俯瞰的な目。
学校の定期試験は、蟻さんの目。目の前のものをコツコツやることが大切。
当然最終目標が入試本番の場合は普段から鳥の目を持つように意識することが肝心となる。
今までの学習勉強人生の結果、リザルトの一つが帰ってきた。
結果など公表するのは下品なのでは?
ヒカリさんは結果主義なのですかという声を以前メールでよくいただくことがあった。
ヴォクはコーチえのもとなので結果にこだわりをもって毎週の授業にあたっている。ヴォクは体力測定平均以下運動嫌いの音楽好きで吹奏楽部に所属していた。
ぼくは
勝つことを自分の目標にして練習する。
友達に誘われてなんとなくテニスをはじめた。
男子が一人しかいないことに今更きづいて吹奏楽部からテニス部に移籍した後から来た期待されない新入新人部員。開始も4ヶ月遅れたし上手くなるなんてはじめから希望していなかった。基礎指導も聞けなかったしラケットの持ち方も分からず友達の真似をした。ぽんぽんを他の子はずっとしていたのだがヴォクはそのぽんぽんすらろくにできなかった。
だめだなこりゃあ、自分でもうまくなる予感は0だった。
コーチえのもとは言った。
1軍は優勝してもらう。
2軍は県大会の決勝戦で1軍と闘うことにする、と。
とにかく優勝したヴォク達はいつしか主体的に練習するようになっていた。
朝早くきて壁打ちするような子がチラホラ出てきた。ヴォクごときがぽんぽんと壁打ちの達人になっていた。ヴォクは家族がないからという意味不明な理由で一軍に入れてもらっていた。足をひっぱりまくっているのは誰の目にも明らかだった。練習だけはひたすらこなしそこそこうまいだけなのに、自信のようなものを持てるようになったのはひとえにコーチえのもとの精神指導のたまもの。
足が絡まって倒れるまでくるくるコートを走り回らされてボールを打ったのはもちろんだが勝つのは当たり前と思えるくらい誰よりも日焼けしておりどの学校よりも長く練習した。他校の子には負けない、負けるはずがないという自信がいつしか備わっていた。もともとどんぐりの背比べ的なスポーツだからここ一番というところでの集中力や精神力メンタルが他のスポーツ以上に重要なスポーツである。
ちょっとの結果を出して調子に乗っていくのもスタート時点では重要だ。
というわけで結果はやる気を引き出すための材料と思っている。
結果は目的なんかじゃない。
どんなに楽しく指導したところでどんなにわかりやすく教えたところでどんなに原因と理由を遡って納得できるように伝えたところで試験結果で結びつきが出ていないと意味がないとヴォクは考えている。
成果を見れば練習がわかる。練習を見て練習がわかる人はごく少数でほとんどの人は結果を見るまで練習の意味がわからないものだ。
入試なら合格という結果、模擬試験なら偏差値や素点、定期試験なら得点にフォーカスしてそこからカリキュラムや教材テキスト解説を構成して組み立てるのは当たり前のこと。毎年の入試問題を解いていると入試で何が聞かれるのか頭に入ってくる。
それを本番で受ける時に短い時間で解いて高得点を叩き出すということが指導の目的の一番にある。
姿勢を正すとか問題集の繰り返し方を伝えるとか忘れる前に復習して何度も見直すとかの個々のやり方は細かい戦術であって戦略の最上位にあるのは入試本番で高得点を叩き出すことにある。
優勝という文字が入試にはあまりないがそれに準じるものとして満点というものがある。
そこから逆算して組み立てている。
結果にこだわるのは予備校、学習塾として最も重要なことだと認識している。だから写真をわざわざつけて模試結果まで載せている。開塾していらい長きの間、チラシの一枚をまいたことがない。
開いて1ヶ月目からずっと満席満員御礼なのは結果をきちんと載せているからとしか思えない。結果ほど頼りになる判断材料などない。
本が何千冊あるかとか過去問が30年分揃っているかとか古文漢文英文現代文が復習しやすいようなプリントがあるのかとかそういうツールや環境は手段や道具でしかなく結果を見ていただくのが一番と思っている。お預かりした全員の平均結果を毎年見ていただくようにしている。
結果を書いているのはホームページに塾案内を書けば書くほど虚しくなるからで、それでホームページをつくっていない。
一般論ほど机上の空論で無駄な案内はない。どんな塾であったかよりも本人がいまからどんだけやるかの方が101倍ほど大事。それで塾生が全員受ける模試部分の数字だけ公開している。
結果を見る。夏にかけてやっていくことがどれも原因と結果の法則にしたがって、秋以降の結果につながってゆく。
鳥のように見てアリのように視る。自分のやりたい練習、やるべき練習に集中しよう。練習時間の長さは問題にならない。ほなね。
plus 雑談も。
たまに、(あくまできわめてまれにだが)何を勉強したらいいのですか、とか現代文の勉強の仕方がわかりませんとか言う方がいる。
そのような方のはじめての授業で問題を解いたあとを見てみるとそもそも言葉の意味がわかっていない。言葉の意味がわからないのに論理も解法も勉強法も朝顔も夕顔もあったもんじゃない。
水がないところで川の流し方を教えてくださいといわれているものだ。
砂場に池をつくるくらい難しいよ。
当たり前のことをちゃんとしようよ。目を覚ましてよ。
言葉は毎日つかっているのだよ。
その言葉の意味で知らないのがあったら気にならなかったことにしないでいちいち念頭に置いておこう。
あとで調べるのでもいいからさ。
できる人は類推したあとに10秒くらいでまずは調べる。
その積み重ねだよ。
人の話を聞いても意味がわかるわけがないよね。
ましてや少し難しい内容を伝えたいことがあって文章があるのを読んでみようにも意味がわかるわけがない。
本文が読めない。
設問が読めない。
選択肢が読めない。
本設選見事に三拍子も六秒子もそろってる。
本当か? 言葉なら普段使ってるから知ってるぞと言うなら(譲歩)、もっとくどく書こう。
英語の自転車で通学するときのgo to school by bike の school や bike に a も the もつかないのは抽象名詞だからだともしその言葉で説明しても、わからない場合がありえる。
それはよくある。
抽象も同じ概念である捨象も知らない人に抽象名詞がわかるわけがない。
三単現のsといって Hiromi Go goes to work by car. の go は 郷ひろみさんなのに go でなく goes だなんて言ったところで、もちろんなぜかわからないが、きちんと主語が三人称単数だからと説明をまともに切り替えたところでピンとこない場合がありうる。
驚くなかれ三人称を知らないでいるからだ。
言葉の意味を知るのは勉強すべきことのひとつにまずあって言葉の意味を正確に知らないのに文脈も同義も反義もあったものではない。郷ひろみさんやヒロミという芸能人はいるが芸能人という芸能人はいない。芸能人は抽象だというごく当たり前のところから解説しないと解説にならないところからして言葉の意味を正しく知ることの大事さが認識できる。
同様のことはレベルの差こそあれあらゆるシーンで言えて「やむを得ず」の語源が「不得已」という漢文にあると言われてもそれが本当かうそかわからない段階、そうかもしれないと思う段階、他の説を出せる段階などいろいろなレベルがある。
言葉の知識は正確にしっておくにこしたことはない。
漢字が書けるというのとはまた違う側面の問題であってこのように少し難しい言葉、かなり難しい言葉というのが現代文では当たり前の前提として用いられているし、さらには一般的な考え方のスキや盲点をつく形で多くの文章は書かれているわけだから、まずは通常の意味を知っておかないことには話がはじまらない。
言葉をないがしろにしたまま文章を読もうとするのは、剣なしでフェンシングを、ボールなしでバスケをするようなものだ。
名もなき詩のlionさんの言うところの、自分のやりたい勉強をやれ。自分のしたいことはしなさい。
気になったならすぐにやったらいいのだよ。
いまやるのだよ。
いつやるか? という質問自体がおかしい。
いまやらないで待ってくれるわけがない。
インターハイの試合が気になるならじっと見なさい。
甲子園が気になるならしっかり見なさい。
映画が観たいなら見なさい。
知りたいことがあるのならみなさい。
ところで、勉強は、何時間やったところで、あるものをもたずにやってしまっても意味がないのだよ。
そのものを持たないでただ長くやったって身についてこないのだよ。
逆にそれを持って勉強をやったら、やった分ずつ実力になるんだ。
それってなあに?
それがあれば、どんな練習のときでもそれが身についてくるようになる。
それはついてくる。
それはつきまとってくる。
It follows.
それはおばけよりもしつこくあなたから離れなくなる。
それはあなたの頭に一度つくともう外れなくなる。(映画「糸」より引っ張る主義)
質か量か、それを気にする前に、何をうまくなりたいのか、何のテーマの力を持ち上げたいのか、テーマを知りなさい。
たくさんやってどんどんなんでもうまくなるものか、たくさん勉強したら電気が作れて電話が作れてiPhoneが作れて、ロケットが作れるようになるのか。
たくさんやって次へ次へとステージが進むものか?地区大会を勝って県大会を勝って全国大会に出て予選も勝って・・・ただ長い時間練習をしてそんなに勝ち上がれるものだろうか。
だれかのてほどきを受けたとして、何かの本でやり方を知ったとして、そこまでは誰も多かれ少なかれ似たようなものだ。
その次の一歩の踏み出し方にもう個人差が出る。
大きく出る。
同じことをやっても得られるものが変わってしまう。
習った技術を使ってみるところに小差が出る。
やってみるところに大差が生じる。
ものを知っていることとものをやることとの間の差異。
だから、それを持って勉強するんだ。(もっと引っ張るの?)
たとえば国文法で、推定と推量があるがどう違うのか。小学校の時から何回も聞いてきた推量と推定という言葉を何回もその都度何も考えずにやり過ごしたのかそれとも答えがなくても予想し続けて過ごしたのか。両者は似たようなものなのか。似ているのならどうしてすべて推量と言わないのか。(推定はおだやかな断定。推定には根拠がある。)知っていることとわかっていることは違う。
たとえば、古文の主語を探す方法に着目して読むことを目標にして読んでみる、そのときにそのテーマ(述語を行なっているのが誰かを明示すること)に自覚的になること、自覚して練習するのが勉強で大事なポイントである。そもそも日本語や古文では主語は書かれるのか、書かれないのか、それともいろいろなのか。いつ主語は書かれていつ主語が書かれていないのか。古文の説話(古文の題材は90パーセント以上説話)で、主人公は書かれるのか書かれないのか。古文の日記で「私は」は書くのか書かないのか(古文では[日本語では]、一人称の主語は書かない(だから、一人称はいつも突然に現れる)。主語が書かれないのはどのような場合か(主人公が主語のとき古文の説話では主語は書かれない)。主語が変わりやすいのはどのような場所か(を\に\ば?そんなわけがないことは日常の言葉で自分で作文したら10秒でわかる、をにばで変わるわけがないだろう)。どの語句の前後で主語は変わるのか。否、そんな傾向はないのか。小学生の頃から日本語を読むときには当たり前に行なっていることを古文で行うだけである。
「給ふ」がつくのは同じ人物か違う人物か、「給ふ」「る」「らる」がつく人と筆者の地位の関係はどうなのか。知っていることが自分なりの考察(自分にしかできない、習えない)を通してわかる力、見出せる力、初見の問題を読む力になっていく。ただ主語を見つけることの一点だけでもたくさんの着眼点がたしかにある。そしてそれらは普段から「そのこと」をやっておけば試験本番であわてなくてすむ。
数学で定量化することを自覚的に行う、図形の性質を見える化することを普段の練習時から自覚的に行う、練習試合で自覚的なやり方でできていることだけが本試合で実行できる。
小説の登場人物をメモを書き出すことを自覚的に行う、10秒でできる。登場人物が多い小説になら人物図はふつうに冒頭に書いてある。誰だって小学生の頃からそういうものは本の開いたすぐにあるのを見たことがある。そういう当たり前のことを小説で行う。おそろしいくらいみんなしない。それでいてこれはだれだったかなと何回も戻って行ったり来たりする。人物に◇のしるしもつけられていないからまたはじめから読み返したりしている。出るたびに10秒でメモするとか習ってないからしてはいけないんだと勝手に禁止事項としてすりかえて実は面倒くさいから思考放棄、作業放棄している。瞬時に人の名前を覚えられる人なんて3万人に1人しかいないというのに。
英語の時制と変化形(相)を見る(全体的に見る)こと、操作することを自覚的に行う、過去形があるとき次の文も過去形であることが多いのか少ないのか(一度過去の話をしているときそのテーマから離れるまでそのまま過去形を用いる)、過去形の文の次の文が過去形でなく現在形になっているときにそうしたわけはなんなのか。
文章の論理接続マーカーの前後の関係を自覚的に読む、イコール関係、逆接関係、因果関係、条件と結果の関係、一般と具体(一般=具体)、例などの人間の持つ基本的な論理関係の整理、訓練を普段から自覚的に行うこと、自覚的に読む、意識して読む、つながりを探しながら読むと不思議なものでつながりが(良問の中には)よく見つかる。書くときにもつながりや関係を自覚して(10回目?)考えるようになり、読むのが一層上手くなる。(大事なので11回?同じそのこと「自覚」を書いた。) 中でも一番難しいのが「条件→結果」の関係で、現代文でも漢文でも英文読解でも(悪問では)本文自体には論理的誤りが含まれていることは少なくない。それでも問題には答えないとならないから設問に対する答えを導くのも余計困難になる。接続詞を自覚的に使い分けることは物を書く人なら誰でも当たり前に行なっている。小学生の頃から作文のたびに毎回毎回行なっていること。それを読むときにも自覚的に着目してみる。
条件と結果の関係は難しい設問になりやすいため、論理学なかでも命題と真理集合についての正しい考え方を習得しておくべきだ。方程式の解も真理集合だ、と聞いてそりゃそうでしょうねとすぐに思うくらいなら悪くない(=古文の「よろし」水準にある)。「T社の広告を降ろされたある俳優Kがいたとして、比較的初期の映画SDの価値が減るようなことがありえる」は真か偽か。へんな論理をふりかざす人がいっぱいいるのでいいか悪いかを考えるのは他人の発言ではなく自分の中にいつも基準を持ちたいものだ。条件や因果というのは論理を複雑にさせるものだからこそ、自分の頭で考え判断したい。
因果関係の問題はどうか。因果関係の問題つまり非常によくある「なになにの理由を書きなさい。」という問題で「結果たるなになに」の「理由」を直接どこかなどこかなと探偵のように本文中にくまなく探す。理由を書きなさいとあるのだから理由はどこにいるのかなと探す。そのような端から端までローラーのようにくまなく何回も探すのは正しい読み方ではない。なくなったメガネをさがすときに玄関からはじめて廊下を10cmずつ刻んで探していくのに似て、一行目から見つかるまで読み返すやり方はもはや宝探しでしかない。
理由を書きなさいという問題で理由を探していくのは感覚的な読み方に過ぎない。理由を示す語句にも着目する。探偵は証拠を探すが探偵は探す前に人の心理、動機も考える。国語や英語などで理由を探すときにも因果関係の言葉があるからそこを見ていく。証拠があって探すためのルートが存在しているからこそ問題が成立しているのだ。
メガネを外すのはどこかを考えてから探すべき場所をあたるのと同じだ。小学生の頃から当たり前にやっている探し方を現代文の中でも行うだけのことだ。
繰り返しの語句は書くのか書かないのか、英語で主語が代名詞のときに受ける名詞はどこにあるのか、前の文の主語と一致するのかしないのか、to不定詞の動作をするのは文の主語なのか否か、want,ask,tell O to do共通点は何か、強いのはどれか、弱いのはどれか、助動詞はまだやっていないことを示すのか、助動詞があって初めて述語の意味が決まるのか、それとも助動詞はちょっとした差をつけるだけなのか(助動詞が述語を確定させる)。未来時制はコントロールできる意志の未来なのかコントロールできない推量なのか、日本語だったら未来時制にあたる言葉があるのかないのか。同時に習わないからと言って考えてはいけないようなことではない。むしろ比べるのが言葉を学ぶ楽しさのひとつだ。
仮定法は事実でない、事実から遠い表現、事実でない表現を用いているのはなぜか。(条件と帰結に関する世の中の多くの誤解が英語では生じにくくなる。仮定法はその点では非常に優れている。)日本語には仮定法がないのか。古文や漢文にはないのかあるのか。
見る、観る、視る、見える、意識して見るのはどれか、広く全体を見るのはどれか、漢文では「見」と「視」は区別されるのか、英語ではseeとlookは一般にはどう区別されているのか、日本語で、「視聴」というが「視聞」や「見聴」と言わないのはなぜか、スポーツで相手の動きや呼吸、目線を見るときどのみるを行なっているのか。絵画をみるときに視るのと見るのとで時間をかけてみるのはどちらになるのか。もしミルミルを毎日飲んでいなくてもたとえミルミルを知らなくてさえ、見るという言葉を使わない日を探すのは難しい。観るにも視るにもよくみると見るがみえる。見ていないだけで見たらみえる。忙しいからそんなの考えていられないよと心を自分から勝手に亡くしているから忙しいという文字の成り立ち通り(左が心、右がない)になっているだけであって忙しいと思わずに当たり前のことを普通に考えてみようとするだけでみるについて区別が増えるようになる。派生させて、王を付けて「現」にすると表す、現れる、appear, manifestになるのも実に面白い。言葉は言葉一つだけでみるのでなく他との連関の中で見るようにして考える(構造主義という)のが言葉を学ぶ良い方法である。
現代文古文漢文英文読解で非常によく出る指示語の問題、漢文の「於是」は何を指すか、英語のthat, this, itは何を指すか、do that, do it, do so, doは何が違うのか、具体的な物(同一のこと)を指すのがどれで、具体的にはささず前全体の内容、漠然としたものを指す表現はどれなのか、ネイティブの5歳児が使い分けることができるのが言語なのだから理屈はいつだって単純なところにあるはずだ。それを文法といって外国語を学ぶ人も国語学者も方言学者も言語学者もそういうものは非常に大事に扱っている。そのようなこと、法則性、言葉のもつ性質を普段から相対して比べて(構造主義)考えておけば、試験問題を前にはじめて指示語の内容を初見で解く際にも0から考えることの必要がない。(「於是」という漢文を「これにおいて」でなく「ここにおいて」と読むように日本人が決めたのは、内容を漠然と受けることを読みに表したものである。そんなのも知らずに考えずにただここにおいてここにおいてここにおいてとお経のように唱えて丸覚えしようとすることの虚しさよ。)ナイキの広告がjust do it であってdo soでないのは語感や違いや意味を考えると実に深い意味がある。do it / do so 問題は just という焦点化副詞 Focusing Adverb の性質まで合わせて考察することのできるおもしろい表現だ。
ブログの記事のエントリー名にもしたある映画で、弟子のシェフが師匠のシェフに返事をするときにはYes,sir. / No, sir. / I don't know, sir.の3つしかないというセリフがあり、そこが実に面白かった。(映画については、こっちのブログにはヴォクが好きな映画の題名だけをあげている。→ https://blog.hikarijuku.education/entry/470900278.html 興味のある方向けには、ひ/か/り のマークをつけている。)
コーチえのもとは毎日言った。「30になればわかる、やれ」と。ヴォクたちは「はい」以外のことを言うことはなかった。言い返す子もいたが少なくともヴォクは「はい」以外の言葉を彼に伝えたことがただの一度もない。
ナイキの広告のjust do it.はそれのことだとヴォクは思ってる。
自覚とは当たり前のように書かれていること、言われたことが本当か? 本当にそうなのか? と自分なりの仕方で確認してみること、数えてみること、考えてみることをいう。自覚は他人が取って代わることはできない。似ていることがあって一見区別がつかないことは現実世界に五万とある。
でもね、それは本当にそれでいいのか?
と立ち止まって考えたほうがいいことがあまりに多い。
効率や経済性だけで決まってるからただ決まった通りにやるのは人間的なことではない。そこに個はない。
スティーブの引用したところ(※最後にはる動画内)のステイ ハングリー ステイ フーリッシュ の姿勢で日々を過ごし、ちょっとしたことずつでも自覚することをしながら勉強をして、対象を視聴するような仕方で自分のこととしてやると、自己をマニフェストするときにクリエイティブば仕方でマニフェストしようとすると、不思議と不思議とが自分の頭の中で点と点が点と線になり点と線が点と面、線や面になっていく。不思議なくらいみるみるとつながってますます多くのことがすぐに見える、見聞できるようになる(みるみるだけに)。みる見える、見える、見るが習慣になって意識になって自覚して次にみるようになって練習するときに自覚的な練習が立て続けにできるようになってくる。ますます創造的になれる。自分で自分にフィードバックできる(それがセルフラーニング)ことが連続的にできるようになっていく。機械的な人間と反対の個人になっていくチャンスがある。
テーマへの自覚的な集中を持って練習することがあれば。
漢文で「返り点」をつけるときつけずに上から下へ読んではどうしていけないのか。返り読みすることで何が起きるのか。英語みたいに返り読みしなくても意味がわかるのではないか?
返り読みするって習うからって返り読みしない場合と何が違うのか考えてみることをしたのか否か。
「友あり遠方より来たる」を「有友より遠方」とやって何かまずいことがあるのかないのか?
漢文を読んでいて日本語に近づけるスタンスをとるときに、動詞から助動詞へは返るのか(かえる)、目的語\補語から動詞へは返るのか(かえる)、では名詞から名詞へ返ることはあり得るのか(名詞から名詞はない)、かえれそうなところではどんどんつけて返り読みして古文に近づけたらよいのか(否、かえらないで済むならそのまま古文の語順だからそのままにする、簡単な方を選ぶのが原則)。漢文で上の動詞が下の動詞にかかることはあるのか(ない)。
漢文で唯一といっていいくらい問われる、返り点の付け方でさえ練習時にじっくり自覚して診るべき点がある。(練習時にはあくまで練習時には)答えが合っていたらいいなんて問題外。何題解いたって、そもそもなぜ返り読みしないといけなかったのか、返り読みはどのような役割の語句のところで生じているのかまでを意識してチェックしなければいつまでたっても返り点の付け方が見えるようにならない。
試験本番では見えていることは無意識に行えばいいのであって試験中に自覚的に同じことをする必要はもちろんない。
ただ素振りをするのと、鏡や映像を振り返りながら意識しながら自覚しながら素振りをするのは違う。トップアスリートが自分のプレイの動画や鏡に写った自分の動きの像を自分で見つめながら聴きながら動きを意識してやるのと同じで、決まったメニューや課題を受け身で受けるのと自覚的な練習とはまるで勉強の仕方が異なる。まったく違う。
自覚のある状態の子は練習の大事な場面でじっと動きが止まっていてテーマを睨み、他人の言葉に対してもグッと聴くことをする。鵜呑みではなく本当にそうか?と自問自答している。そんなとき目ん玉がグルグルと動いても頭がまったく動かなくなる。それは集中して自覚していることを考えているからだ。
すると(弟子が練習しているときに)手ほどきをする方の師匠もなんとかいいヒントが出せるように、ヒントの与え方を工夫しておいて練習のときに間違えのないようにギュッと集中して短い言葉で単純に出すようになる。練習生があまりに熱心で微動だにしないのでコーチも真剣に緊張して準備する。やがて練習生がコーチの自分をこえる日が来て欲しいと願って。
自覚的な練習により、AとAでないものの境界線が数多くの場面で見えてくるようになり、考える帽子を毎日かぶって生活するようになる。
何をやっていても楽しいことが見つかって見えるようになってまた新しい不思議なせかいが広がっていることにも同時に気がつくようになる。見えない自分が悔しいが理想のやり方ができたときの喜びも味わえるので新しいことにどんどん挑戦したくなってゆく。人間の人間たるゆえんは自分でしかできない形で考えることができる点にもある。それを人間の個性という。デカルトのいう「我思う故に我あり」の思うをしないのは人としてあまりにもったいない。
自覚して練習するのを通して思考が深まる。そうしてスパイラルに上へ上へと進むにつれて視界が水平線が広がっていくにつれてスッキリしていることの数は増えてくる。そして意味がすっかり見えたものは覚えられる。意味が見えたものは瞬時にうまく(無意識でも)使いこなせる。当たり前にできないといけないものほど単純でシンプルで短く簡潔なルールに則って動いている。しかしその単純なルールは初学者にとって異質のものであるから丸のみできない。意識的に消化して血肉化してはじめて自然に無自覚的につかいことなせるようになっていく。
その過程を勉強という。自覚して強いないと異質なものは入ってこない。
普段じっくり考えてクリアになっているテーマは試験中の極限の中でも楽しんでいるかのようにスピード処理ができるようになりルール通りに正確に速くリズミカルに進むことができるようになっていく。当てずっぽうで勘を働かせる場ではなく因果関係があって解答が隠した形で用意されている正解のある試験に対して自分のつくってきたものの見方、視点、判断枠組みと自分の固めてきたフォーム、形式、作法とを用いて自分のいつものやり方で試験に挑めるようになっていく。
常日頃、だから、やりたい勉強を捨てるんじゃない。
本当に知りたいことから目を逸らすんじゃない。
逃げるな。捨てるな。
立ち止まって、よみながさないで、通り過ぎないで、目も開いて、いちいち、考えるんだ。
自分なりの見方を持つんだ。自覚するんだ。
目を覚ますんだ。
それが自覚的に勉強して工夫を重ねることにつながって、明日の自分を一層二層三層強くさせてくれるんだ。
大きくなあれ。当たり前のことしか書いてない。
当たり前のことを自分のこととしてやるのを取り戻して欲しいから書いている。書いた。
ヴォクは無意識に影響を受けている、イチローにも貴乃花にもスティーブにもコーチエノモトにも。
だから毎日彼らの言葉を自覚して見るようにしている。
だから無意識に侵食されてもいる。
パクっているつもりすらない。
こんなの読むより、イチローさんのおっしゃるところの「ただの基本」。
そしてスティーブのスピーチも。