上尾市学習塾 ヒカリブログ

上尾市にある学習塾,光塾

北辰テスト結果 2022年度3年第3回 因果関係

春までの結果が返ってきた。会場模試の結果。今回はこの学年はじめて中3の光子全員が受験していた。

 

夏にやっていくことがどれも原因と結果の法則にしたがって、秋以降につながってゆく。

自分のやりたい練習、やるべき練習に集中しよう。時間の長さは問題にならない。

 

名もなき詩のlionさんの言うところの、自分のやりたい勉強をやれ。自分のしたいことはしなさい。インターハイの試合が気になるならじっと見なさい。甲子園が気になるならしっかり見なさい。映画が観たいなら見なさい。知りたいことがあるのならみなさい。

 

ところで、勉強は、何時間やったところで、あるものをもたずにやってしまっても意味がないのだよ。

そのものを持たないでただ長くやったって身についてこないのだよ。

逆にそれを持って勉強をやったら、やった分ずつ実力になるんだ。

それってなあに?

 

それがあれば、どんな練習のときでもそれが身についてくるようになる。

それはついてくる。

それはつきまとってくる。

It follows.

それはおばけよりもしつこくあなたから離れなくなる。

それはあなたの頭に一度つくともう外れなくなる。(映画「糸」より引っ張る主義)

 

質か量か、それを気にする前に、何をうまくなりたいのか、何のテーマの力を持ち上げたいのか、テーマを知りなさい。

 

たくさんやってどんどんなんでもうまくなるものか、たくさん勉強したら電気が作れて電話が作れてiPhoneが作れて、ロケットが作れるようになるのか。

たくさんやって次へ次へとステージが進むものか?地区大会を勝って県大会を勝って全国大会に出て予選も勝って・・・ただ長い時間練習をしてそんなに勝ち上がれるものだろうか。

 

だれかのてほどきを受けたとして、何かの本でやり方を知ったとして、そこまでは誰も多かれ少なかれ似たようなものだ。

 

その次の一歩の踏み出し方にもう個人差が出る。

大きく出る。

同じことをやっても得られるものが変わってしまう。

習った技術を使ってみるところに小差が出る。

やってみるところに大差が生じる。

ものを知っていることとものをやることとの間の差異。

だから、それを持って勉強するんだ。(もっと引っ張るの?)

 

たとえば古文の主語を探す方法に着目して読むことを目標にして読んでみる、そのときにそのテーマに自覚的になること、自覚して練習するのが勉強で大事なポイントである。主語は書かれるのか書かれないのか、いつ主語は書かれていつ主語が書かれていないのか、主語が変わりやすいのはどのような場所か、「給ふ」がつくのは同じ人物か違う人物か、「給ふ」「る」「らる」がつく人と筆者の地位の関係はどうなのか。

 

数学で定量化することを自覚的に行う、図形の性質を見える化することを自覚的に行う、

 

小説の登場人物を書き出すことを自覚的に行う、

 

英語の時制と変化形(相)を操作することを自覚的に行う、

 

文章の論理接続マーカーの前後の関係を自覚的に読む、イコール関係、逆接関係、因果関係、一般と具体、例などの人間の持つ基本的な論理関係の整理を自覚的に行うこと、自覚的に読む、意識して読む、つながりを探しながら読むと不思議なものでつながりはよく見つかる。書くときにもつながりや関係を自覚して(10回目?)考えるようになり、読むのが一層上手くなる。(大事なので10回同じことを書いた。)

 

因果関係、「なになにの理由を書きなさい。」という問題で「結果たるなになに」の「理由」を直接どこかなどこかなと探偵のように本文中にくまなく探す。

理由を書きなさいとあるのだから理由はどこにいるのかなと探す。そのような端から端までローラーのようにくまなく何回も探すのは正しい読み方ではない。なくなったメガネをさがすときに玄関からはじめて廊下を10cmずつ刻んで探していくのに似て、一行目から見つかるまで読み返すやり方はもはや宝探しでしかない。

理由を書きなさいという問題で理由を探していくのは感覚的な読み方に過ぎない。理由を示す語句にも着目する。探偵は証拠を探すが探偵は動機も考える。理由を探すときにも因果関係の言葉があるからそこを見ていく。証拠があって探すためのルートが存在しているからこそ問題が成立しているのだ。

メガネを外すのはどこかを考えてそこをあたるのと同じだ。

 

繰り返しは書くのか書かないのか、英語で主語が代名詞のときに受ける名詞はどこにあるのか、前の文の主語と一致するのかしないのか、to不定詞の動作をするのは文の主語なのか否か、want,ask,tell O to do共通点は何か、強いのはどれか、弱いのはどれか、助動詞はまだやっていないことを示すのか、未来時制はコントロールできる意志の未来なのかコントロールできない推量なのか、

 

仮定法は事実でない、事実から遠い表現、事実でない表現を用いているのはなぜか。

 

見る、観る、視る、見える、意識して見るのはどれか、漢文では「見」と「視」は区別されるのか、英語ではseeとlookはどう区別されているのか、日本語で、「視聴」というが「視聞」や「見聴」と言わないのはなぜか、スポーツで相手の動きや呼吸、目線を見るときどのみるを行なっているのか。

 

自覚することをしながら勉強をして、対象を視聴するような仕方でやると、不思議と不思議とが自分の頭の中で点と点、点と線、点と面と、不思議なくらいみるみるとつながってますます多くのことがすぐに見える、見聞できるようになる(みるみるだけに)。みる見える、見える、見るが習慣になって意識になって自覚して次にみるようになって練習するときに自覚的な練習が立て続けにできるようになってくる。自分で自分にフィードバックできることが連続的にできるようになっていく。

テーマへの自覚的な集中を持って練習することがあれば。

 

漢文で「返り点」をつけるときつけずに上から下へ読んではどうしていけないのか。返り読みすることで何が起きるのか。

動詞から助動詞へは返るのか、目的語\補語から動詞へは返るのか、では名詞から名詞へ返ることはあり得るのか(名詞から名詞はない)、どんどんつけて返り読みして古文に近づけたらよいのか(否)。

漢文で唯一といっていいくらい問われる、返り点の付け方でさえ自覚して診るべき点がある。答えが合ってたらいいなんて問題外。何題解いたって、そもそもなぜ返り読みしないといけなかったのか、返り読みはどのような役割の語句のところで生じているのかまでを意識してチェックしなければいつまでたっても返り点の付け方が見えるようにならない。

 

ただ素振りをするのと、鏡や映像を振り返りながら意識しながら自覚しながら素振りをするのは違う。トップアスリートが自分のプレイの動画や鏡に写った自分の動きの像を自分で見つめながら聴きながら動きを意識してやるのと同じで、決まったメニューや課題を受け身で受けるのと自覚的な練習とはまるで勉強の仕方が異なる。まったく違う。

 

自覚のある状態の子は練習の大事な場面でじっと動きが止まっていてテーマを睨み、他人の言葉に対してもグッと聴くことをする。目ん玉がグルグルと動いても頭がまったく動かなくなる。それは集中して自覚していることを考えているからだ。

すると手ほどきをする方もなんとかいいヒントが出せるように、ヒントの与え方を工夫しておいて練習のときに間違えのないようにギュッと集中して出すようになる。

 

自覚的な練習により、AとAでないものの境界線が数多くの場面で見えてくるようになり、考える帽子を毎日かぶって生活するようになる。

何をやっていても楽しいことが見つかって見えるようになってまた新しい不思議なせかいが広がっていることにも同時に気がつくようになる。見えない自分が悔しいが理想のやり方ができたときの喜びも味わえるので新しいことにどんどん挑戦したくなってゆく。

 

そうしてスパイラルしながら上へ上へと進むにつれて視界が水平線が広がっていくにつれてスッキリしていることは増えてくる。そして意味がすっかり見えたものは覚えられる。意味が見えたものは使いこなせる。

 

普段じっくり考えてクリアになっているテーマは試験中の極限の中でも楽しんでいるかのようにスピード処理ができるようになりルール通りに正確に速くリズミカルに進むことができるようになっていく。当てずっぽうで勘を働かせる場ではなく因果関係があって解答が隠した形で用意されている正解のある試験に対して自分のつくってきたものの見方、視点、判断枠組みと自分の固めてきたフォーム、形式、作法とを用いて自分のいつものやり方で試験に挑めるようになっていく。

 

常日頃、だから、やりたい勉強を捨てるんじゃない。

本当に知りたいことから目を逸らすんじゃない。

逃げるな。捨てるな。

立ち止まって、よみながさないで、通り過ぎないで、目も開いて、いちいち、考えるんだ。

 

自分なりの見方を持つんだ。

 

それが自覚的に勉強して工夫を重ねることにつながって、明日の自分を一層二層三層強くさせてくれるんだ。

大きくなあれ。

 

 

 

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