「野菜ジュースと野菜は何が違うの? 野菜をミキサーでくだいたのが野菜ジュースなんだよね?」「うーん、それは私も知りたい、知りたい。」
「どうして季節の変化があるの?どうしていちごは冬や春にいちごになるの?」「を!ゴイスだね。わかったら教えてね。」
「漢方薬は草でできているの?その草は中国でとれるものなの?それとも日本でとれる草なの?漢方薬と普通の薬はどこが違うの?」「きたー。それ、すごく気になっていたの。」
「この問題がわからない。」「いい問題だなぁー。そういう大事なことは自分でなんとかしなさい。」
わからないのは構わない。「でも、全然自分の頭で考えてないよね?」
小学生(ときには中学生)のうちは親が教えていても見かけの結果(偏差値など)はわるくならないだけに問題はさらに深刻化する。
「今夜のご飯はなに?」「今夜はカレーだよ」
「今日はなにをしたらいいの?」「今日は算数からやるぞ!」
親が子に教えたから学力が伸びたのだと親も安心する。子も親の満足そうな笑みを見てそのときは喜んでいる。でもセルフラーニング値が上がっていない。それどころか長い目で見て確実に下がってしまうこともありえる。子は親の指示に従うことしかできていない。親が言ったことしか学べなくなってきた。親がはじめ!というまで本を開くこともない。後から始めの合図があるだろうから今のうちに休憩しておこ、っと。
「あしたはなにを勉強するの?」「今夜の勉強はなあに?」「ぼくはどうしたらいいの?」
中学生になる。…(紙面の都合で中略)…セルフラーニング値は上がっただろうか。
高校生になる。親のスパルタで第一希望の高校に入ることができた。高校では勉強したいことの分量が中学の六倍くらいになる。
「もう高校生なんだからひとりでやりなさい。」「いまさらひとりじゃできないよ。」
それを全部また親が子に教えるというのだろうか。親が一晩中予習しても英数国だけでも普通は間に合わないだろう。それに子供は部活動で家にいなくて一緒に勉強する時間もない。なにしろセルフラーニング値があまり上がってない。
大学生になる。専門書を与えられる。それをまた親が子に教えるというのだろうか。
「今夜のご飯はカレーだよ。その後、今夜の勉強は論理学だよ。」
plus 風船のようにふくらませると次にふくらみをもっと大きくするのは大変になる。
勉強すればするほどその先にはもっと大きな広がりが待っていてわからないことが増える。
勉強すればするほど勉強が足りないという気が起きてくる。
たくさんやらないといけないようなことを感じる。知らないことだらけという気になっている。
しかしこれ以上ふくらませるのには大きな力が必要でやってもやってもなかなか拡がらない。
だからとってそのことのせいで自信をなくさなくたっていい。
広がりが見える最先端にまで君はもう辿り着いているのだよ。