中学生になっても(小学生でも同じだが)親が子に勉強を手取り足取り教えることには、ヴォクは個人的に反対である。いつか独りでできるようにならなければいつまでも独りでできるようにならない。
勉強開始の笛を吹くのは本人、勉強をやめるのも本人ではないのだろうか。勉強は試行錯誤の積み重ねを通してはじめて身につく。間違えないと覚えない。失敗の経験が次の成長のバネとなる。間違えてわからなくてころんでもつまづいても、自分なりにやり方を工夫してなんとかする、というのが勉強の本質なんじゃないか。 かわいい子には旅をさせよ、という言葉もある。
一緒に勉強して答えを教えるのは親や指導者がやってはならぬことのうちの一つ目である。質問されたときでさえ答えまで与える必要性はない。逆になぜ独りで考えないのか、なぜ調べないのか、なぜ思考停止状態なのかと疑問視しなければならない。
「夕焼けはなぜ茜色なの?」「そういう大事なことは自分で考えなさい。」
「どうして季節の変化があるの?」「を!ゴイスだね。わかったら教えてね。」
「この問題がわからない。」「そういう大事なことは自分でなんとかしなさい。」
わからないのは構わない。「でも、全然自分の頭で考えてないよね?」
小学生(ときには中学生)のうちは親が教えていても見かけの結果(偏差値など)はわるくならないだけに問題はさらに深刻化する。
「今夜のご飯はなに?」「今夜はカレーだよ」
「今日はなにをしたらいいの?」「今日は算数からやるぞ!」
親が子に教えたから学力が伸びたのだと親も安心する。子も親の満足そうな笑みを見てそのときは喜んでいる。でもセルフラーニング値が上がっていない。それどころか長い目で見て確実に下がってしまうこともありえる。子は親の指示に従うことしかできていない。親が言ったことしか学べなくなってきた。親がはじめ!というまで本を開くこともない。後から始めの合図があるだろうから今のうちに休憩しておこ、っと。
「あしたはなにを勉強するの?」「今夜の勉強はなあに?」「ぼくはどうしたらいいの?」
中学生になる。…(紙面の都合で中略)…セルフラーニング値は上がっただろうか。
高校生になる。親のスパルタで第一希望の高校に入ることができた。高校では勉強したいことの分量が中学の六倍くらいになる。
「もう高校生なんだからひとりでやりなさい。」「いまさらひとりじゃできないよ。」
それを全部また親が子に教えるというのだろうか。親が一晩中予習しても英数国だけでも普通は間に合わないだろう。それに子供は部活動で家にいなくて一緒に勉強する時間もない。なにしろセルフラーニング値があまり上がってない。
大学生になる。専門書を与えられる。それをまた親が子に教えるというのだろうか。
「今夜のご飯はカレーだよ。その後、今夜の勉強は論理学だよ。」