ヒカリブログ

上尾市にある学習塾光塾

答えは子の中に(2)

(「コタエはコの中に」勝手にシリーズ化第2話。)

どうしたらセルフラーニングすることができるようになるのだろう、とよく言われる。どうしたら学習する習慣がつくのですか、とよく耳にする。

自分で考える。

自分で決める。

自分で後悔する。

自分で望む。

自分で目標を立てる。

自分でやる。

自分で負ける。

こういう機会を奪わなければそれでいい。

周囲が代わりに負けてあげなければそれでいい。

負けるってくやしいじゃん?

立ち上がるチャンスじゃん?

2軍からまた復活できたらもっと強くなれるじゃん?

母子家庭だろうが、家が富んでいようが貧しかろうが、長女だろうが末っ子だろうが、自分でやるうちにセルフラーニングの力はついてゆくのだ。

答えは子供本人の頭の中にしかない。親がどんなに助けてもセルフラーニング力はますます弱まるだけだ。愛する子には旅をさせよ。

関心をもつことと、過保護することは違う。たとえば90点を本人がとったとしよう。こんなことは日常にありふれている。小学2年生のテストで0点をとることと90点をとることは髪一重だから。

90点をとる。そこでなんで100じゃなかったのだろうと悔しがり工夫するのは子供の権利なのだ。周りが「あと10点ミスだったのね!」なんて余計なことを言わなくても、90とったら95くらいはとりたいと本能的に子供は願うものだし、95とれば次は100を!と思うものだ。次に繋げようと子供は本能的に考えるものだ。

子供が自分で考える環境を奪ってはならない。

何でだろう、何でかな、こうしてみよう、ああしてみようと試行錯誤する子供たちの権利を認め、そして責任を持たせたらいい。

自分で考えて自分でやって自分で失敗できたらはじめて、嗚呼やってしまった、と後悔できる。勉強に向いているといわれる最強の?資質、「負けず嫌い」を手に入れるチャ~~~ンス到来。

それなのに周りがはじめから上から目線で権利も責任も奪いながら操り人形のように、ああしなさい、こうしなさい、次はこの本、お次はあの本、なんて言っていたら、もはや失敗すらできない。失敗しても「言われた通りにきちんとやったのに・・・ちっくしょー」なんて考えてしまうことになる。後悔すらできない。

かわいい子には衣食住だけ与えられたらそれでいい。

たとえば、中学生の職業体験を引き受けて、「お客様にアイスコーヒーを出す」という仕事を子供に任せるとしてみよう。普通の中学生だったらジュースやアイコーくらい、お店で一度や二度くらい飲んだことがあるよね。だから、アイスコーヒーの出し方くらい想像して考えて徐々にうまく出せるようになるものだ。

それでも何も教えなければ、はじめのうちは多分、片手でお客さんの前あたりにドンっとおいて黙って席を去るだろう。

でも慣れてきたら、「アイスコーヒーです。」とそっと声を出して音が立たぬように、テーブルの上にアイコーをすーーーーーーっと、丁寧に出せるようになるんじゃないかな。これは失敗して悔しがって学習してそうできるようになるのであって、はじめから指導者がそもそもアイコーの出し方とは・・・なんていいながら一から十まで教えないとできるようにならないなんてものでもない。

さらに、「大変ながらくおまカフェインしました。冷たいアイコーなしなしです。シュガーとミルクはお好みでどうぞどうぞー。」だなんて(エスプレッソだけに)エスプリ利かせた余計な営業トークまでできるようになる上級店員(ある意味)になるとしても、それは誰かがアレコレ教え込んでできるようになるというものでもないかもしれない。

あるいは、文章の書き方を学ぶときもそうだ。0から教えても、なかなか書けるようにはならない。日記を書くのは本人以外の他の誰もできない。毎日、今日一日を振り返って日記を書いたり、他人の日記を読んでうならされたり、いい表現を盗んだりしながら、だんだんと日記を書くのだってうまくなっていくんじゃないか。いや、何より日記を書くのは自分のためになる。なにしろ毎日後悔出来るんだから。ときには吉田兼好清少納言の日記力と自分の日記力を比べてみたりなんかして。

結局、自分で負けて悔しい思いをすればするほど、次こそは一発でしとめようという強い「負けず嫌い」の精神が生まれるのであり、周りの人間がそういうチャンスを奪わないようにすることが大切なんじゃないだろうか。

一度、そういう精神を持った子は学校の授業を全部わかろうと集中するし、宿題なんかは短時間で集中して終わらせてしまって、あまった時間で自分のやりたいことや趣味をたくさんやるという好循環に入っていくことができるんじゃないか。

不定期的に続く・・・)てか題名、変えたいな。