数学を勉強するときには自分の頭で考えることだ。
解答を読むだけでもまぁ、わかる。行間までくわしく書いた書物に従って読み進めることは読解力があれば可能だ。では、読んで解るだけで数学ができるようになるのか。講義を聴くだけで数学が得意になるのか。
否。
数学はそんなふうにはできていない。数学的な問題の解答(解決策)はひとつとは限らない。それを頭で考え手を使ってペンを動かし書いてみることだ。
どんな道筋がありえるのか、あるいはないのか。
どうしてその筋道で考えるとよいのか、あるいはわるいのか。
はじめから終わりまで模範解答を読んで模倣するだけの学習法ではこの点がつかめない。道筋は模範解答にはひとつしか書かれていない。なぜその筋道がいいのかは、見ているだけではなかなかわからぬものだ。読んで聞いてばかりでは、追跡するのはうまくなっても、いつまでたっても思い付く力(発想力)がつかない。追跡(模倣)するだけの学習法では、発想力がみにつかない。道筋と筋道はどこが違うのか、理論と論理はなにが違うのか、そういうところにまで考えが及ぶことがない。
思い付く力をつけたければつよく考えることだ。あれやこれやと、あぁでもない、こぉでもないとつよく考え、その強い思いが解決策にいつかピタとはり付くまで書きながら粘ってみることだ。試行錯誤、このことが思考の水平線を拡げてくれる。
考える数学とはこのことを言う。解法のテクニーク(定石)をたくさん知っているだけで数学がうまくならないのは、将棋に似ているかもしれない。穴熊や棒銀を知っているだけで将棋がうまくならないのと似てはいまいか。
あるいはまた投球術にも似てはいまいか。かつて江川卓投手はまっすぐとカーブだけで勝負したという。まっすぐとカーブ、2種類しかないのに強かったのはいったいどういうわけだろう。使い方を身に着けていたからではなかろうか。球種は多いにこしたことはないだろうが、それだけでないことを物語っている。
その戦術のよさを知るには、まずはそれを自分で自分なりの仕方でトコトン使ってみる。使っているうちにそれの有効性や使い方が少しずつ身に着いてゆく。
そうだ。自分の答案は自力で0から限界まで作ってみる。
そうして限界を知った後にはじめて解答例と言われるものと自分の(限界)答案を比較する。そこまでするとき、二者間の差異について考えるというはじめの一歩を踏み出せるんだ。