気持ちをこめて文章を読めるのと国語(物語文)の読解力は比例する。
どのように黙読しているかを知りたくて、もちろん正しく読めているかどうかを確認する意味もこめて、音読を低学年の子や初期の子たちに必ずしてもらっている。確認が完了し上手だとわかった子には徐々にその機会は減らしている。
漢字の読みやイントネーションが正しくできているかはもちろんだが、なにより、意味のまとまりごとに気持ちをこめて読んでいるかを見ている。スラスラとつまることなく読めるかということ(それも大事なことではあるだろうが、気持ちをこめて読める子はそもそもあまり不正確な読み方はしないものだ)以上に、意味を捕らえようとしながら読んでいるのかを確かめている。棒読みではなく、意味を追跡した読み方をしようとしているのかを聞いている。
意味を考えながら話を追いかけながらゆっくり読んでね、と僕は伝えている。
悲しいところは悲しげに、元気なところは元気よく、それをしてもらっている。
音読を気持ちをこめてできる子ほど要約してまとめて表現する力もあるように感じる。
音読のあとに黙読した上で要約をしてもらっていると、そういうことを感じる。
声に出さずに耳の中で読むときも変わらないんじゃないか。文章の意味を考えながら、文章の中に入り込んで、文章にはりついて、文章のトーンに合わせながら読むことが国語とりわけ物語的な文章の読解の土台であるようにヴォクは感じている。
およそ客観的な問題である限りにおいて、国語の問題の解答は本文の中にある。そこに何が書いてあるのかを考えながら読んでいる子は、声に出させても気持ちをこめて読むものだ。はずかしがって小さい声やボソボソ声であったにしても読解力の一端はその中にも読み取ることができるように思う。
だからヴォクは音読をしてもらうことをやめない。国語が好きな子や国語が好きになりたい子は、楽しそうに読む。間違いに線を引いて指摘すると、うれしそうに修正しながら読む。
そういうことは大事にしたい。
ほなね。