とよ爺さんにまた!?取り上げられてしまった。やっべ。まじやっべ・・・。
突然全文引用します。
(スタート)
そしてその「自信力」は、塾屋であるならば、オリジナルのものでなければならない。
もちろんそれを生み出すまでには、いろいろのプロセスはあって良いし、
それは私に言わせれば、独りよがりの思い込みでも一向に構わない。
塾屋の歴史を作ってきた人たちは、みなその時代では異端児だったのである。
だから私はむしろ異端児の道でも良いと思う。
しかし異端児で成功した人たちは、みな凄まじいプロセスを経て成功しているので、
それを決して忘れてしまってはならない。
私の場合は完全に「独りよがりの思い込み」だった。
塾屋なんかはレベルでは、それで良いと私は思っている。
私のレベルなど、所詮そんなものである。
例えば、このブログでお付き合いさせていただいている
ヒカリ先生という先生がいるのだが、彼は私に言わせると徹底的にとことん自分を追い込んで、朧気に見えている何かを必死で追いかけている。
彼のブログの文章などを読むと、私はときどき胸が熱くなるときがある。
彼の追い込み方を見ていて、私などと違って将来途轍もないものを見つける可能性が十分あると予感させる。
彼は東大卒の超エリートだそうだが、私はそんな学歴(ヒカリさん、すいません)などまったく信用しない。
もちろん「すごい学歴!」ということは分かるが、人間性や求めるものがすごいのだ。
いくら東大卒と言っても、素晴らしい塾屋になるとは決して決まっているわけではない。
中卒だって、高卒だって、すごい人間は世の中には山ほどいるのだ。
しかし、自分が信ずる何かを求めようとしているがために、人によっては半ばストイックに見える
彼の生き方は、感動に値すると私はいつも思っている。
だから、彼には結論をきっちり見出している「自信力」はもちろんしっかり持っているし、
更なる「自信力」を見いだそうとしている苦悩している過程なのかも知れない。
私もきっとそれを追い求めていかなければならないのだが、
私の歳になると、何かの形としてそれを表現しないといけないように思え、
まだまだ結論が出せず、自分の気持ちと思いの中を
一時もそれを忘れることができないぐらい彷徨っている最中なのだ。
「自信力」は一途に何かを求めているときに作られていると思う。
そして「自信力」を築き上げた瞬間に塾屋は塾屋としての役割を終えるのかも知れない。
だから若い塾屋たちよ、塾屋として死せる日が来るまで「自信力」を追い求めよ。
それを追い求めているときこそ、背中全体に順風を受けていると信ぜよ。
それが真の塾屋の生き様だと私は思う。
(つづく)
(引用ゴール)
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こらぼるぞー。ごぉーーーーーーーーーーーーーーーーーーー。
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