上尾市にある学習塾|光塾

わかるとは解けることではない(2)

りんごアンテナ日記さんや上機嫌で行こっとさんにとりあげられたので例のごとくシリーズ化してみよっと。

だってさ、ひとつの記事が塾ブログの二大ニュースサイトに同時にとりあげられて、全国津津浦浦の目にさらされることになるからってさ、ラッキーと言える?

全然ラッキーじゃないから、むしろアンラッキーだから。転じてアンガールズだから(手をキモく振りながら、ヤマネ~と甲高い声もあげながら)。

だからさ、こわごわとシリーズ化してみるわけ。

果敢に挑んでみるの。連続で取り上げられたら逆にびっくりできるし。

のけぞっちゃうし。

というわけで、

「わかるとは解けることではない。わかるとは、自分なりの仕方で納得し、自分なりの仕方で人に説明できるということだ。」と前回にぼくは書いた。

センター試験で25点とったなら4分の1わかっていることにはならない。全問2番にマークしたらそういう点数が与えられる。本当にわかっている科目が全国平均点の60点にとどまるわけもない。

わかるかを試す一番わかりやすい方法は人に説明してみることだ。

慣れてきたら自分に説明するのが無意識にできるようになる。

たとえばぼくが人にテニスを教えるときには呼吸法と落合監督という二つ道具を使う。

最初は意識的に息をする。息を吸いこみながらラケットを振り上げる。ラケットをあげ切ったら息をとめボールの軌道を見切る。そして息を吐き出しながらリラックスしてラケットをインパクトへ向けて運ぶ。インパクトは頂点。インパクトの瞬間から残りすべての息をボールにのせきる。フォロースィングは打者落合のようにできるだけ長くボールと接しながら。ソフトバンクの和田投手のように最後までボールを離さない。

塾では「できる」方法については指導しない。できるとは長嶋監督のバッティングのように感覚的個人的なものであり伝えるものではない。ボールが来たらバシッと打つというような説明になるような天才的・個人的状態だ。

対して「わかる」とは自分がなぜ「できる」のかをメタレベルで認知することであり、なぜできるかを説明できるということである。

派閥をつくらない落合監督が名監督たりえるのは彼が「できる人」(優勝できる監督)にとどまらず「わかる人」(優勝の仕方を人に説明できる人)たりえるからではないだろうか。

岩瀬投手へのパーフェクトリリーフはそれを象徴的に表した事件であった。監督就任初年度の春のキャンプで実力主義政策を示したあの紅白戦の時から落合監督には優勝の仕方がわかっていたに違いない。

塾に通って偶然のようにできるようになり、伸びるようになってもうれしくないよね。

伸びる方法を子供自身がまた他人に伝えられるレベルで、勉強がわかるように、指導してゆきたい。

とにかくやらせて、つめこんで、宿題を与えて、檄を飛ばして、ついてこ~い・・・これじゃあ進学後五月病は確定しちゃうよ。

(こわごわと(3)に続く)