よく料理人に仕込みのことを教えてもらう。
いったい、スープをつくるのにどれだけの時間をかけているのだろう。
仕込みの時間は目には見えない。
僕は舌がこえておらず生キャベツくらいが一番の好物なので、「オススメをください。」
と注文する(予算くらいは伝える←(前回の記事のかっこを使いながら))。
おいしかった料理の仕込みの話を聞いて驚くことがしばしばだ。
オススメのものには情熱と愛情と仕込みの膨大な時間が費やされている。
このためなんだか味音痴なぼくがたべてもなんだかおいしい。
それから体に悪いモノ(味○素とか一部調味料)を使わずにつくるという話も聞くことがある。
さて、授業。
頭に悪いモノとは、「これだけ覚えたら大丈夫」的なできあいのプリント。
国語で言えば、模範解答(これはなくてよい、ぼくなら子供の解答文をもとに授業する)。
算数で言えば、1つしかない解法(食塩の問題なら面積図、天秤図、線分図、ビーカー図、方程式くらいはぼくは示す)。
数学で言えば、公式の使い方からはじまる教材(公式の意味のところが数学力をのばす)。
理科なら「暗写テキスト」(資料を見て現実を見て想像するのが頭によい材料)。
社会なら「社会は暗記」(地図帳や資料集を見て流れや全体像をイメージさせるのがよい材料)。
英語なら「英文を丸ごと暗記」(文法を知れば暗記しなくともつくることができる)。
悪いモノはその場しのぎで考えさせず、頭に負荷を与えない。
楽にする虎の巻でもその背景理解がないと使い物にはならない。
(なんだか春はあけぼのみたいになってきた。)
料理教室に通うのは、料理の作り方を知りたいからだろう。
それと同じで、人が塾に通うのは、学習の仕方を盗みたいからではないか。
僕はなぜこういう勉強をしないといけないのかを伝えたい。
なぜ、中学生は字をまっすぐ、丁寧に、適度の大きさで書くべきなのか。
なぜ、赤○と青○と?マークがノートにあるべきなのか。
なぜ、北辰テストや駿台模試は必修ではないが受ける人が多いのか。
なぜです、なぜです、なぜです。
北辰も首都圏模試も、生きてきて考えてきて、練習してきて、とやったのと同じだけの結果が
点数になってあらわれている(だろう)。
良問とは学力を正確にはかることができる問題のことである。
良問もまた、をつくるのには膨大な時間がかかる。
一部大学が入試問題作成を予備校に丸投げするのはこの仕込みをできる人間が組織の中にいないからだ。
面倒くさいからという理由だけではない。
良問を見る目、良問をつくる目、良問で学ぶ力、そんなことも考えることがある。
長く塾で仕事をしているとどんな本が×でどんな本が○か1分くらい本をながめても8割はあたるようになる。
1年間使ってみると○予想だった本が◎の良質教材だとわかることがある。
リンクからいけるヒカリ推薦図書SABへは◎を入れるようにしている。
紹介ペースが落ちているのでヒキョーな本が出てくるのは11月くらいかな。