必修ではなく希望参加とした先日の北辰テスト。
ある貴婦人がファラデーのコイルの装置を見て尋ねた。
「こんな装置が何の役に立つのですか?」電気の研究がどんな役に立つのかと彼女はファラデーに尋ねた。
ファラデーの答えは、「おくさま、生まれたての赤ん坊がのちにどんなに立派な人物になるかもしれないということをご存知でしょうか。」
実話かどうかは知らないが、好きな話。
plus 春日部、所沢、千葉、東京と遠方から本人の意思で来ている小学生がいる。
やめなさいと言っても来るのは本人の意志以外にない。
親が何かを頼んでもヴォクは反応しようがない。
たった1つずっと待っているのだ、本人の、やりたいという言葉を。なりたいという言葉を。
plus 今日の中学生化学。
中和をやったときの質問で、中和が起きる理由は水の電離度にあるのかと。
水の電離平衡状態ではイオンに分かれている部分が少ないはずだから水素イオンや水酸化物イオンが多いのは水の平衡状態に反すると理解していると。
単に覚えようとするだけでなくなぜを考えるのはいまの中学生の理科のカリキュラムでは難しい。なにしろ理由部分が高校へ回されているから。この子は自分で積極的に高校の物理入門書籍や化学入門書を読んでいるのでこのようなことを疑問視できるようになったのだろう。
plus 出題のあった「なり」は難しい 英語の be だよ
まず名詞につくのに助動詞。半端なく難しい。むげなり のように形容動詞にもそっくりで難しい。
ぼくが難しいと書くくらいだからほんまにむずかしいねん。
なり は だ とである どっちがいいかといえばどっちでもいいが ほんまは である がいい。
なんで関西弁て古文は関西弁の先祖みたいなもんやろ。
ほんで、なり は である がええねん。
ズバリ ひとつの助動詞は ひとつに 訳す。
これ奥義なり。
なり を である って訳したら ならむ が であろう になる。
なり を だ って訳したら ならむ が だろう になってしまう。
でもそれだと せむ を するだろう と訳した時との差別化が難しくなる。
なり の 語源は にあり で あって それを訳すと である
にあり の に が である の で と考えたい。
にあり → にてあり → である →
↓
なり
古文の助動詞 なり → 古文の助動詞 に =いまの助動詞 で
いまの助動詞 だ、である だけれど であると訳しておくことにする。
あるは状態だから 終止形が あり と まるで形容詞のように イ段だった。
基本形 が古文では あり 。他の動詞と違って変になっているから ラ変。
そこからうまれた なり はもっと変。
あり → り →たり →今の た
の たり もかなり変。
たり は漢文訓読体では なり と同じように使われて変。てあり → たり で かなり変。
たりは 漢文訓読体のような文章でなければ 存続 でとらえる。ている と訳す。
変なところにはいろんな理由があってそこを理解すると何にも変でなくなってくる。
あり がわかれば なり も たり も変なことがなーんにもない。
と言いたかった(なり)。
plus 定期試験の範囲表の100倍大事なもの。
それがシラバス。
シラバスについては何度か書いた。足音検索ボタンで見る限り結構書いたようだ。
新中1生が春から進学する公立中学校のシラバスの写真を送ってくれた。
おかげで予習を同じ順序でできて計画が正確にたてられる。
社会は地理スタート、理科は植物スタート。
順序良く予習をできる。早起きは3問のトク。
独学できるくわしい参考書とシラバスがある。勉強はそれでできる。
シラバスは学校の進度。渋幕のことを持ち出すまでもなく優れた指導には必ず優れたシラバスがある。
白いバス、シラバス。
白バスに先行してマイバスを走らせる。