授業中は算数数学や化学物理の時間が長めなのでバランス調整で日記の方では国語や勉強方法の一例の話が比較的多めになっている。
今日の小学生。
(シーン1)
主語述語の説明で専門用語の体言と用言だけ覚えるように伝えた。
deep : 気になることばはないかな?
子 : この体言と用言が変わった言葉です。
deep : 深いですね。
体言の体は「実体」をもともと表す。実体がなければ何について話すこともできないよね。実体ってわかるかな?
用言の用は「作用」。
ということは、
「主語が述語する」を実体と作用で言い換えしてみて。(クイズをメモしながら)
(シーン2)
解答欄を空白にしてしまったという一番もったいない解き方を行なっていたため毎回のコーチを行った。それが私の仕事だから。
解答が何もわからないときに3つの作法がある。
1、 全部空白にする。
自分が何を考えているのかを自分で目視できていないレベルの解答の仕方。問題演習の意味がない。
何を答えることを要求されていたのかを掴んだのか掴んでいないのかも解答で伝えることができないので0点が与えられる。
2、問題を解いていてある部分がわからないときに全体をごまかして全体を勘でとらえてぼかしてめちゃくちゃのあてずっぽうでメモを残す解答の仕方がある。いやこうじゃないわ!と書き出しメモに対して自分ツッコミを入れたりしながら修正ができるだけ深化の余地が大いにあり1の10倍ほど学習効果がある。意味を類推するために関係を手がかりにわかったところをなんとなくつなぐという連関を読む練習になっていて問題演習の効果がほんの少しだけある。ほんの少しというのは肝心の自分の理解をぼかしてしまっているところがもったいないということである。
自分なりにこう理解したはぼかしたくない。何通りでもよいから書き出してみて自分の案はこれになるというのが出てくると演習効果は数段上がってくる。
3、部品として間違えることをする。わかっていないところxだけはあてずっぽうで書きその他のクリアにわかっている部分はそのまま書き残しておく解答の仕方。xのところ以外が正しいのかどうかを採点する側もわかる。そしてxの正解との距離感が採点者にもわかる。この場合x以外のところが正しければ部分点がx以外の分だけ与えられる。2の全体的にぼかして間違えることよりも10倍高度な間違え方である。
問題演習するときにはわからないところにぶつかったら部品に分けてメモを残すようにしたい。
一言で言えば、自分の理解を分析となる。
3の仕方で解答を試みる場合には間違えていたときにここが不明点だったと原因xのことを突き止めているので正解を知った後に原因の追求から始められる。原因をつきとめていたのでそこの正解との違いを眺めてみながら自分の出した決定案や補案たちとの比較検討がしやすい。
3の、分からないところがどこなのかわかったことを解答に残す方法で取り組むと問題演習の効果は最大化される。
うー、なんでだろう、このxのところが問題なんだよなー、うーん、xがもしAだったらこういうことになるよな。あー、xがもしBだったらどうだろう・・・。ちがうかー。
このような形で書き出されたメモを見ながら、xのブラックボックス、ワン ピースとそのワンピースと他とのつながりを目視しながらさらに考えを深めるというのが問題演習である。
このやり方はきっと伝わると思うのでやってみているところ。
この表現はわかるけどこの表現は内容がわからない。この表現の内容は何なのか、この表現をつきつめてみたい。
と。
もうひとつ伝えたことがあった。
授業中は数学や理科や英語の時間が長いためというわけだけではないがブログでは国語のことを話題の中心に意図的にしている。ブログは文章を書くのに向いている媒体で文章を書くのは形式として行いやすいというのもある。あるいは授業として光が重んじている論理について日記で書くことは自分の考えの振り返りになるからという意図もある。2回目なので少し詳しく再度書いた。(同じことを2回書いてあるとき2回目の方でなく1回目の方にもどってひとつ☆をつけるのが塾生に伝えているマークの仕方。)デジャヴュ・マーク。文章を読んでいて同内容表現を探して線を引く、傍線が付いていたら同内容表現を本文全体から探して線を引くなどということには意味がない。それは探偵方式。
今日の小学生国語。
(シーン3)
傍線部(ア)はどういうことかという「希望」の良問に対して解答欄いっぱいに真剣に彼女が単語を並べていたのに対して光が0点をつけた。という話。(ア)の表現を他の似た表現に書き換えている。見つからなかったところでは自分の言葉でしっかり真剣に置き換えている。それに対して0点をつけた。
(「真剣に」というのは比喩の言葉であって本人は剣は持っていなかった。しかしかえがないのでそのまま比喩を光は文章中に用いて書いている。ちなみに答案に比喩を使ってはいけないはウソ。)
現代文の本番でワードがあれば部分点が与えられるということはウソ。
採点の基準に1、2、3と分かれていて1が2点、2があったら2点、3が3点のように要素に分かれていて要素に対して点数化しているのだと考える人がいるかもしれない。
しかしそれは間違っている。
解答文は文章として読まれているのであって部分の和ではない。
例 「AはBより大きいから。」が正解であるとしてみよう。(「〜だと仮定しよう」は具体例のしるし。具体のものにはいろいろな側面がある。それらのうちのある一面だけを取り出すことを抽象するという。抽象は広く具体はせまいという集合の屁理屈は具体と抽象の説明としては不適切。)
「BとAが存在するから。」という個別の具体的なこの答案は7点満点の何点だろう。AとBという主語つまり主題がまず異なる。これはきつい。文の主語が違っていたらこれはもう何を述べても同じ意味にするのは土台、無理がある。主題について述べるのが文章であってその主題が違う。AがあってBがあって「ある」がたとえ単語としてあっても3分の2くらい点数があたえられるというようなはずがない。0点である。日本語の着地点たる述語の「もっと大きい」もない。そもそも「反対のものを比較する」、つまり「対比」がこの答案にはない。(「かぎ」は引用でもなく特別な意味づけでもなく、ここは「強調」の「かぎ」。)
というようなことを説明した。真けんに。けんはけんでも光のもっているけんはまた違った意味でかたい。(塾生にはわかる話。)
小学生でも中学生でも高校生でも現代文の授業や指導は基本は同じである。まとめになっているところをそれと認識する、例が例だと気づくこと。具体化されているところをそれと気づくこと。具体的な説明が説明だと気づくこと。言い換えているところを感じ取ること。反対のものを比較しているところをそれと意識すること。強調しているところを発見すること。それらの階層に気づくことの先にあるのが、意味内容のかたまり、意味内容の段落を分ける、意味内容をつかむ、イイタイコトがここに書いてあったと分かるのが読みの基本となる。イイタイコトは文章の階層の一番上にあってトピックセンテンスのように書いてあった、そこをつかむのが読みの基本になる。設問を読む、設問と設問のつながりを読む、設問同士の関係と本文の関係を抑える、設問で出題者が想定した解答範囲を分けて掴んでいた意味段落をもとに判断する、MECEの法則を適当するなどは基本的なところでレベルに関係なくできるようにならないといけない。
基本ができたあとに違いがあるのは読みの段階によって細かい部分になってくる。
「、」の使い方(直後にかからない、誤読を避ける、強調)、「かぎ」の使い方(引用、強調、筆者による意味付け)などはより細かい部分となりすこし後の方で説明されていくことになっている。
読解とは、表現の持つ内容を誤読なく正確に理解すること。「読み」を行うためには勝手に単語を拾って勝手にくっつけるという反対にある方法を捨てて、書かれている表現の通りに正確に理解して内容を読むことを練習するばかりである。階層やかたまりは階層やかたまりとしてとらえたい。階層の最下段にある例は例としてとらえ、階層の最上位にある大切なメッセージは大切なメッセージとしてとらえたい。その正確に理解するというあるべき読み方は難しいようで実のところはかんたんなことなのだけれど、かんたんなことほど奥が深い。人が誤読することが多くなるつまずきポイントはたいていかんたんな表現のところに存在する。誤読だらけの場合から、うまくない場合から、どうしたらうまくなるのか、どうやったら正しく読める段階に進めるようになるのか、どうやったらどこに誤りがあるのかを意識化できるようになるのか、どういうところに誤読の可能性があるのかを説明できるのか、そして理解したことを表現することができるのかという能力は時期によって、練習度合いによって、年齢だけに関係なしに、実力差はかなり大きく出る。そこにフォーカスしながら読みの練習をするのが現代文や文章読解のときに重視している業である。階層であったり構造であったり関係であったりするものを表現のままに読んで、大事な内容がまとめてはじめから文章にまとめて書いてある。勝手に文章全体から言葉を拾って繋げるのでなく、筆者が書いたその大事なことのまとめを見つけてあげるような読み方が読みの基本なのではないだろうか。はじめからまとまって書いてあるのにそのまとめを重視しないのは読みではない。はじめからまとめが書いてあればそこがまとめに決まっているのではないかなと。そういうことを伝えた。